sたと》へようず煩悩心《ぼんなうしん》の空に一波をあげて、未《いまだ》出ぬ月の光を、水沫《みなわ》の中に捕へてこそ、生きて甲斐ある命とも申さうず。されば「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。
二
予が所蔵に関る、長崎耶蘇会出版の一書、題して「れげんだ・おうれあ」と云ふ。蓋《けだ》し、LEGENDA AUREA の意なり。されど内容は必しも、西欧の所謂《いはゆる》「黄金伝説」ならず。彼土《かのど》の使徒聖人が言行を録すると共に、併《あは》せて本邦西教徒が勇猛精進の事蹟をも採録し、以て福音伝道の一助たらしめんとせしものの如し。
体裁は上下二巻、美濃紙摺《みのがみずり》草体交《さうたいまじ》り平仮名文にして、印刷甚しく鮮明を欠き、活字なりや否やを明にせず。上巻の扉には、羅甸《ラテン》字にて書名を横書し、その下に漢字にて「御出世以来千五百九十六年、慶長二年三月上旬|鏤刻《るこく》也」の二行を縦書す。年代の左右には喇叭《らつぱ》を吹ける天使の画像あり。技巧|頗《すこぶる》幼稚なれども、亦|掬《きく》す可き趣致なしとせず。下巻も扉に「五月中旬鏤刻也」の句あるを除いては、全く上巻と異同なし。
両巻とも紙数は約六十頁にして、載《の》する所の黄金伝説は、上巻八章、下巻十章を数ふ。その他各巻の巻首に著者不明の序文及|羅甸《ラテン》字を加へたる目次あり。序文は文章|雅馴《がじゆん》ならずして、間々《まま》欧文を直訳せる如き語法を交へ、一見その伴天連たる西人の手になりしやを疑はしむ。
以上採録したる「奉教人の死」は、該《がい》「れげんだ・おうれあ」下巻第二章に依るものにして、恐らくは当時長崎の一西教寺院に起りし、事実の忠実なる記録ならんか。但、記事中の大火なるものは、「長崎港草」以下諸書に徴するも、その有無をすら明にせざるを以て、事実の正確なる年代に至つては、全くこれを決定するを得ず。
予は「奉教人の死」に於て、発表の必要上、多少の文飾を敢《あへ》てしたり。もし原文の平易雅馴なる筆致にして、甚しく毀損《きそん》せらるる事なからんか、予の幸甚とする所なりと云爾《しかいふ》。
[#地から2字上げ](大正七年八月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:八木正三
1998年6月14日公開
2004年3月16日修正
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