。乞食は勿論オレンジに飛びつき、主計官は勿論《もちろん》笑ったのである。
 それから一週間ばかりたった後《のち》、保吉はまた月給日に主計部へ月給を貰いに行った。あの主計官は忙《いそが》しそうにあちらの帳簿《ちょうぼ》を開いたり、こちらの書類を拡《ひろ》げたりしていた。それが彼の顔を見ると、「俸給《ほうきゅう》ですね」と一言《ひとこと》云った。彼も「そうです」と一言答えた。が、主計官は用が多いのか、容易《ようい》に月給を渡さなかった。のみならずしまいには彼の前へ軍服の尻《しり》を向けたまま、いつまでも算盤《そろばん》を弾《はじ》いていた。
「主計官。」
 保吉はしばらく待たされた後《のち》、懇願《こんがん》するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇《くちびる》には明らかに「直《すぐ》です」と云う言葉が出かかっていた。しかし彼はそれよりも先に、ちゃんと仕上げをした言葉を継《つ》いだ。
「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」
 保吉の信ずるところによれば、そう云った時の彼の声は天使よりも優しいくらいだった。

     西洋人

 この学校へは西洋人が二人、会話や英作文を教えに来ていた。一人はタウンゼンドと云う英吉利《イギリス》人、もう一人はスタアレットと云う亜米利加《アメリカ》人だった。
 タウンゼンド氏は頭の禿《は》げた、日本語の旨い好々爺《こうこうや》だった。由来西洋人の教師《きょうし》と云うものはいかなる俗物にも関《かかわ》らずシェクスピイアとかゲエテとかを喋々《ちょうちょう》してやまないものである。しかし幸いにタウンゼンド氏は文芸の文の字もわかったとは云わない。いつかウワアズワアスの話が出たら、「詩と云うものは全然わからぬ。ウワアズワアスなどもどこが好《よ》いのだろう」と云った。
 保吉《やすきち》はこのタウンゼンド氏と同じ避暑地《ひしょち》に住んでいたから、学校の往復にも同じ汽車に乗った。汽車はかれこれ三十分ばかりかかる。二人はその汽車の中にグラスゴオのパイプを啣《くわ》えながら、煙草《たばこ》の話だの学校の話だの幽霊《ゆうれい》の話だのを交換した。セオソフィストたるタウンゼンド氏はハムレットに興味を持たないにしても、ハムレットの親父《おやじ》の幽霊には興味を持っていたからである。しかし魔術とか錬金術《れんきんじゅつ》とか、occu
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング