である。この眼に猿蓑《さるみの》を見てゐるのである。この眼に「赤光」や「あら玉」を、――もし正直に云ひ放せば、この眼に「赤光」や「あら玉」の中の幾首かの悪歌をも見てゐるのである。
 斎藤茂吉を論ずるのは上に述べた理由により、少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。且又茂吉の歌の価値を論じ、歌壇に対する功罪を論じ、短歌史上の位置を論ずるのはをのづから人のゐる筈である。(たとひ今はゐないにしろ、百年の後には一人位、必ず茂吉を賛美するか、或は茂吉を罵殺《ばさつ》するか、どの道真剣に「赤光」の作者を相手どるものの出る筈である。)かたがた厳然たる客観の舞台に斎藤茂吉を眺めることは少時《しばらく》他日に譲らなければならぬ。僕の此処に論じたいのは何故に茂吉は後輩たる僕の精神的自叙伝を左右したか、何故に僕は歌人たる茂吉に芸術上の導者を発見したか、何故に僕等は知らず識らずのうちに一縷《いちる》の血脈を相伝したか、――つまり何故に当時の僕は茂吉を好んだかと云ふことだけである。
 けれどもこの「何故に?」も答へるのは問ふのよりも困難である。と云ふ意味は必ずしも答の見つからぬと云ふのではない。寧ろ答の多過ぎるのに茫然たらざるを得ないのである。たとへば天満の紙屋治兵衛《かみやぢへゑ》に、何故に彼は曾根崎の白人小春を愛したかと尋ねて見るが好い。治兵衛は忽《たちま》ち算盤《そろばん》を片手に、髪が好いとか眼が好いとか或は又手足の優しいのが好いとか、いろいろの特色を並べ立てるであらう。僕の茂吉に於けるのもやはりこの例と同じことである。茂吉の特色を説明し出せば、それだけでも数頁に及ぶかも知れない。茂吉は「おひろ」の連作に善男子の恋愛を歌つてゐる。「死にたまふ母」の連作に娑婆界《しやばかい》の生滅《しやうめつ》を語つてゐる。「口ぶえ」の連作に何ものをも避けぬ取材の大胆を誇つてゐる。「乾草」の連作に未だ嘗なかつた感覚の雋鋭《せんえい》を弄んでゐる。「この里に大山大将住むゆゑにわれの心のうれしかりけり」におほどかなる可笑しみを伝へてゐる。「くろぐろと円《つぶ》らに熟るる豆柿に小鳥はゆきぬつゆじもはふり」に素朴なる画趣を想はせてゐる。「かうかう」「しんしん」の Onomatope に新しい息吹きを吹きこんでゐる。「父母所生《ふもしよじやう》」「海此岸《かいしがん》」の仏語に生なましい紅血を通はせてゐる。……
 かう云ふ特色は多少にもせよ、一一「何故に?」に答へるものである。が、その全部を数へ尽したにしろ、完全には「何故に?」に答へられぬものである。成程小春の眼や髪はそれぞれ特色を具へてゐるであらう。しかし治兵衛の愛するのは小春と云ふ一人の女人である。眼や髪の特色を具へてゐるのも実は小春と云ふ一人の女人を現してゐるからに外ならぬ。すると小春なるものを掴まへない以上、完全に「何故に?」と答へることは到底出来る筈のものではない。その又小春なるものを掴まへることは、――治兵衛自身も掴まへたかどうかは勿論千古の疑問である。少くとも格別掴まへた結果を文章に作りなどはしなかつたらしい。けれども僕は僕の好んだ茂吉なるものを掴まへた上、一篇の文章を作らなければならぬ。たとひはつきり掴まへることは人間業には及ばないにもしろ、兎に角義理にも一応は眼鼻だけを明らかにした上、寄稿の約束を果さなければならぬ。この故に僕はもう一度あり余る茂吉の特色の中へ、「何故に?」と同じ問を投げつけるのである。
「光は東方より来たる」さうである。しかし近代の日本には生憎この言葉は通用しない。少くとも芸術に関する限りは屡《しばしば》西方より来てゐるやうである。芸術――と大袈裟に云はないでも好い。文芸だけを考へて見ても、近代の日本は見渡す限り大抵近代の西洋の恩恵を蒙つてゐるやうである。或は近代の西洋の模倣を試みてゐるやうである。尤も模倣などと放言すると、忽ち非難を蒙るかも知れない。現に「模倣に長じた」と云ふ言葉は日本国民に冠《かぶ》らせる悪名《あくみやう》の代りに使はれてゐる。しかし何ぴとも模倣する為には模倣する本ものを理解しなければならぬ。たとひ深浅の差はあるにしろ、兎に角本ものを理解しなければならぬ。その理解の浅い例は所謂《いはゆる》猿の人真似である。(善良なる猿は人間の所業に深い理解を持つた日には二度と人真似などはしないかも知れない。)その理解の深い例は芸術の士のする模倣である。即ち模倣の善悪は模倣そのものにあるのではない。理解の深浅にある筈である。よし又浅い理解にもせよ、無理解には勝ると云はなければならぬ。猿の孔雀や大蛇よりも進化の梯子の上段に悠悠と腰を下してゐるのは明らかにこの事実を教へるものである。「模倣に長じた」と云ふ言葉は必しも我我日本人の面目に関はる形容ではない。
 芸術上の模倣は上に述
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