ゐる。……
かう云ふ特色は多少にもせよ、一一「何故に?」に答へるものである。が、その全部を数へ尽したにしろ、完全には「何故に?」に答へられぬものである。成程小春の眼や髪はそれぞれ特色を具へてゐるであらう。しかし治兵衛の愛するのは小春と云ふ一人の女人である。眼や髪の特色を具へてゐるのも実は小春と云ふ一人の女人を現してゐるからに外ならぬ。すると小春なるものを掴まへない以上、完全に「何故に?」と答へることは到底出来る筈のものではない。その又小春なるものを掴まへることは、――治兵衛自身も掴まへたかどうかは勿論千古の疑問である。少くとも格別掴まへた結果を文章に作りなどはしなかつたらしい。けれども僕は僕の好んだ茂吉なるものを掴まへた上、一篇の文章を作らなければならぬ。たとひはつきり掴まへることは人間業には及ばないにもしろ、兎に角義理にも一応は眼鼻だけを明らかにした上、寄稿の約束を果さなければならぬ。この故に僕はもう一度あり余る茂吉の特色の中へ、「何故に?」と同じ問を投げつけるのである。
「光は東方より来たる」さうである。しかし近代の日本には生憎この言葉は通用しない。少くとも芸術に関する限りは屡《しばしば》西方より来てゐるやうである。芸術――と大袈裟に云はないでも好い。文芸だけを考へて見ても、近代の日本は見渡す限り大抵近代の西洋の恩恵を蒙つてゐるやうである。或は近代の西洋の模倣を試みてゐるやうである。尤も模倣などと放言すると、忽ち非難を蒙るかも知れない。現に「模倣に長じた」と云ふ言葉は日本国民に冠《かぶ》らせる悪名《あくみやう》の代りに使はれてゐる。しかし何ぴとも模倣する為には模倣する本ものを理解しなければならぬ。たとひ深浅の差はあるにしろ、兎に角本ものを理解しなければならぬ。その理解の浅い例は所謂《いはゆる》猿の人真似である。(善良なる猿は人間の所業に深い理解を持つた日には二度と人真似などはしないかも知れない。)その理解の深い例は芸術の士のする模倣である。即ち模倣の善悪は模倣そのものにあるのではない。理解の深浅にある筈である。よし又浅い理解にもせよ、無理解には勝ると云はなければならぬ。猿の孔雀や大蛇よりも進化の梯子の上段に悠悠と腰を下してゐるのは明らかにこの事実を教へるものである。「模倣に長じた」と云ふ言葉は必しも我我日本人の面目に関はる形容ではない。
芸術上の模倣は上に述
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