ツの下に一匹の蚤でも感じたが最後、たとひ坂田藤十郎の演ずる「藤十郎の恋」を見せられたにしろ、到底安閑と舞台の上へ目などを注いでゐる余裕はない。況《いはん》や胃嚢を押し浸した酸はあらゆる享楽を不可能にしてゐた。のみならず当時の陳列品には余り傑作も見えなかつたらしい。僕はまづ仏画から、陶器、仏像、古墨蹟と順々に悪作を発見して行つた。殊に※[#「龍/共」、第3水準1−94−87]半千《きようはんせん》か何かの掛物に太い字のべたべた並んでゐるのは殆ど我々胃病患者に自殺の誘惑を与へる為、筆を揮《ふる》つたものとしか思はれなかつた。
 その内に僕の迷ひこんだのは南画ばかりぶら下げた陳列室である。この室も一体にくだらなかつた。第一に鉄翁の山巒は軽石のやうに垢じみてゐる。第二に藤本鉄石《ふぢもとてつせき》の樹木は錆ナイフのやうに殺気立つてゐる。第三に浦上玉堂《うらがみぎよくだう》の瀑布《ばくふ》は琉球泡盛《りうきうあわもり》のやうに煮え返つてゐる。第四に――兎に角南画と云ふ南画は大抵僕の神経を苛《いら》いらさせるものばかりだつた。僕は顔をしかめながら、大きい硝子戸棚の並んだ中を殉教者のやうに歩いて行つた。すると僕の目の前へ奇蹟よりも卒然と現れたのは小さい紙本の山水である。この山水は一見した所、筆墨縦横などと云ふ趣はない。寧ろ何処か素人じみた罷軟《ひなん》の態さへ帯びてゐる。其処だけ切り離して考へて見れば、玉堂鉄翁は姑《しばら》く問はず、たとへば小室翠雲《こむろすゐうん》にも数歩を譲らざるを得ないかも知れない。しかし山石の苔に青み、山杏《さんぎやう》の花を発した景色は眇《べう》たる小室翠雲は勿論、玉堂鉄翁も知らなかつたほど、如何にも駘蕩と出来上つてゐる。僕はこの山水を眺めた時、忽《たちま》ち厚い硝子越しに脈々たる春風の伝はるのを感じ、更に又胃嚢に漲つた酸の大潮のやうに干上るのを感じた。木村巽斎《きむらそんさい》、通称は太吉、堂を蒹葭《けんか》と呼んだ大阪町人は実にこの山水の素人作者である。
 巽斎は名は孔恭《こうきよう》、字《あざな》は世粛《せいしゆく》と云ひ、大阪の堀江に住んでゐた造り酒屋の息子である。巽斎自身「余幼年より生質軟弱にあり。保育を専《もつぱら》とす」と言つてゐるのを見ると、兎に角体は脾弱《ひよわ》かつたらしい。が、少数の例外を除けば、大抵健全なる精神は不健全なる肉体に
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