を愛してゐる。ハリケエン・ハツチの近代的富豪にはり倒される光景は見るに堪へない。しかし近代的富豪のハリケエン・ハツチに、――ハリケエン・ハツチもはり倒すほど、臆病なる彼等の一団に興味を持つかどうかは疑問である。
岩見重太郎の武勇伝の我々に意味のあることは既に述べた通りである。が、重太郎の冒険はいづれも末世の我々に同じ興味を与へる訳ではない。その最も興味のあるものは牢破りと狒退治との二つである。一国の牢獄を破るのは国法を破るのと変りはない。狒も単に狒と云ふよりは、年々|人身御供《ひとみごくう》を受けてゐた、牛頭明神《ごづみやうじん》と称する妖神である。すると重太郎は牢破りと共に人間の法律を蹂躙し、更に又次の狒退治と共に神と云ふ偶像の法律をも蹂躙したと云はなければならぬ。これは重太郎一人に限らず、上は素戔嗚の尊から下はミカエル・バクウニンに至る豪傑の生涯を象徴するものである。いや、更に一歩を進めれば、あらゆる単行独歩の人の思想的生涯をも象徴するものである。彼等は皆人間の虚偽と神の虚偽とを蹂躙して来た。将来も亦あらゆる虚偽を蹂躙することを辞せぬであらう。重太郎の退治した狒の子孫は未だに人身御供を貪《むさぼ》つてゐる。牢獄も、――牢獄は市が谷にあるばかりではない。囚人たることにさへ気のつかない、新時代の服装をした囚人の夫婦は絡繹《らくえき》と銀座通りを歩いてゐる。
人間の進歩は遅いものである。或は蝸牛《くわぎう》の歩みよりも更に遅いものかも知れない。が、如何に遅いにもせよ、アナトオル・フランスの云つたやうに、「徐《おもむ》ろに賢人の夢みた跡を実現する」ことは事実である。いにしへの支那の賢人は車裂の刑を眺めたり、牛鬼蛇神《ぎうきだじん》の像を眺めたりしながら、尭舜《げうしゆん》の治世を夢みてゐた。(将来を過去に求めるのは常に我々のする所である。我々の心の眼なるものはお伽噺の蛙《かはづ》の眼と多少同一に出来てゐるらしい。)尭舜の治世は今日もなほ雲煙のかなたに横はつてゐる。しかし車はいにしへのやうに車裂の刑には使はれてゐない。牛鬼蛇神の像なども骨董屋の店か博物館に陳列されてゐるばかりである。よし又かう云ふ変化位を進歩と呼ぶことは出来ないにしろ、人間の文明は有史以来|僅々《きんきん》数千年を閲したのに過ぎない。けれども地球の氷雪の下に人間の文明を葬るのは六百万年の後ださうである
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