る。正岡子規の「竹の里歌」に発した「アララギ」の伝統を知つてゐるものは、「アララギ」同人の一人たる茂吉の日本人気質をも疑はないであらう。茂吉は「吾等の脈管の中には、祖先の血がリズムを打つて流れてゐる。祖先が想《おもひ》に堪へずして吐露した詞語が、祖先の分身たる吾等に親しくないとは吾等にとつて虚偽である。おもふに汝にとつても虚偽であるに相違ない」と天下に呼号する日本人である。しかしさう云ふ日本人の中にも、時には如何にありありと万里の海彼《かいひ》にゐる先達たちの面影に立つて来ることであらう。
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あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも
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ゴツホの太陽は幾たびか日本の画家のカンヴアスを照らした。しかし「一本道」の連作ほど、沈痛なる風景を照らしたことは必しも度たびはなかつたであらう。
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かぜむかふ欅《けやき》太樹《ふとき》の日てり葉の青きうづだちしまし見て居り
いちめんにふくらみ円き粟畑《あははた》を潮ふきあげし疾風《はやかぜ》とほる
あかあかと南瓜《かぼちや》ころがりゐたりけりむかうの道を農夫はかへる
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これらの歌に対するのは宛然《さながら》後期印象派の展覧会の何かを見てゐるやうである。さう云へば人物画もない訳ではない。
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狂人のにほひただよふ長廊下まなこみひらき我はあゆめる
すき透り低く燃えたる浜の火にはだか童子は潮にぬれて来《く》
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のみならずかう云ふ画を描いた画家自身の姿さへ写されてゐる。
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ふゆ原に絵をかく男ひとり来て動くけむりをかきはじめたり
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幸福なる何人かの詩人たちは或は薔薇《ばら》を歌ふことに、或はダイナマイトを歌ふことに彼等の西洋を誇つてゐる。が、彼等の西洋を茂吉の西洋に比べて見るが好い。茂吉の西洋はをのづから深処に徹した美に充ちてゐる。これは彼等の西洋のやうに感受性ばかりの産物ではない。正直に自己をつきつめた、痛いたしい魂の産物である。僕は必ずしも上に挙げた歌を茂吉の生涯の絶唱とは云はぬ。しかしその中に磅※[#「石+(くさかんむり/
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