それも表向きには云われないものだから、内々《ないない》あたしへ当って見るんでしょう。そのまた言い草が好《い》いじゃないの?『お前さんにでも来て貰えりゃ、あいつの極道《ごくどう》もやみそうだから』ですって。親ってみんなそう云うものか知ら? それにしてもずいぶん利己主義者だわね。つまり叔父の考えにすりゃ、あたしは主婦と云うよりも、従兄の遊蕩をやめさせる道具に使われるだけなんですもの。ほんとうに惘《あき》れ返ってものも云われないわ。
「こう云う結婚難の起るにつけても、しみじみあたしの考えることは日本の小説家の無力さ加減だわね。教育を受けた、向上した、そのために教養の乏しい男を夫に選ぶことは困難になった、――こう云う結婚難に遇《あ》っているのはきっとあたし一人ぎりじゃないわ。日本中どこにもいるはずだわ。けれども日本の小説家は誰もこう云う結婚難に悩んでいる女性を書かないじゃないの? ましてこう云う結婚難を解決する道を教えないじゃないの? そりゃ結婚したくなければ、しないのに越したことはない訣《わけ》だわね。それでも結婚しないとすれば、たといこの市《まち》にいるように莫迦莫迦《ばかばか》しい非難は浴びないにしろ、自活だけは必要になって来るでしょう。ところがあたしたちの受けているのは自活に縁《えん》のない教育じゃないの? あたしたちの習った外国語じゃ家庭教師も勤《つと》まらないし、あたしたちの習った編物《あみもの》じゃ下宿代も満足に払われはしないわ。するとやっぱり軽蔑《けいべつ》する男と結婚するほかはないことになるわね。あたしはこれはありふれたようでも、ずいぶん大きい悲劇だと思うの。(実際またありふれているとすれば、それだけになおさら恐ろしいじゃないの?)名前は結婚って云うけれども、ほんとうは売笑婦《ばいしょうふ》に身を売るのと少しも変ってはいないと思うの。
「けれどもあなたはあたしと違って、立派に自活して行《ゆ》かれるんでしょう。そのくらい羨《うらや》ましいことはありはしないわ。いいえ、実はあなたどころじゃないのよ。きのう母と買いものに行ったら、あたしよりも若い女が一人《ひとり》、邦文タイプライタアを叩《たた》いていたの。あの人さえあたしに比《くら》べれば、どのくらい仕合せだろうと思ったりしたわ。そうそう、あなたは何よりもセンティメンタリズムが嫌いだったわね。じゃもう詠歎《えい
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