ず。「毛脛」を「けずね[#「ずね」に白丸傍点]」といふよりすれば、「つねずね[#「ずね」に白丸傍点]」亦「常脛」ならざらむや。「小面」の「ずら[#「ずら」に白丸傍点]」も亦然り。若し夫「葉じや[#「じや」に白丸傍点]屋」に至つては、誰か「茶屋」を「ちやや」と書き、「葉茶屋」を「葉じや[#「じや」に白丸傍点]屋」と書かむとするものぞ。これを強ひて書かしめむとするは僕等の理性の尊厳を失はしめむとするものなり。東京人の発音の不正確なる、常に「じ[#「じ」に白丸傍点]」と「ぢ[#「ぢ」に白丸傍点]」とを分たず、「ず[#「ず」に白丸傍点]」と「づ[#「づ」に白丸傍点]」とを分たざるは事実たるに近かるべし。然れども直ちにこれを以て「ぢ[#「ぢ」に白丸傍点]」「づ[#「づ」に白丸傍点]」を廃し去るも可なりと言はば、天日豈長安よりも遠からむや。国語調査会の委員諸公は悉聡明練達の士なり。理性の尊厳を無視するの危険は諸君も亦明らかに知る所なるべし。然れども諸公の為す所を見れば、殆ど地球の泥団たるを信ぜず、二等辺三角形の頂角の二等分線は底辺を二等分するをも信ぜざるに似たり。雑誌「明星」同人は諸公を以て「新しがり」と做す。「新しがり」乎。「新しがり」乎。僕は寧ろ諸公を目するに素朴観念論に心酔したる原始文明主義者を以てするものなり。
我文部省の仮名遣改定案は金光燦然たる一「簡」字の前に日本語の堕落を顧みず、理性の尊厳をも無視するものなり。我謹厳なる委員諸公は真にこの案を小学教育に実施せむとするものなりや否や。否、僕はこの案の常談たることを信ずるものなり。若し常談たらずとすれば、実施するの不可は言ふを待たず、たとひ実施せずとするも、我国民の精神的生命に白刃の一撃を加へむとしたるの罪は人天の赦さざる所なるべし。我国語調査会の委員諸公は悉聡明練達の士なり。何ぞ大正の聖代にこの暴挙を敢てせむや。僕は正直に白状すれば、諸公の喜劇的精神に尊敬と同情とを有するものなり。然れども、語にこれを言はずや、「常談にも程がある」と。僕は諸公の常談の大規模なるは愛すれども、その世道人心に害あるの事実は認めざる能はず。
我日本の文章は明治以後の発達を見るも、幾多僕等の先達たる天才、――言ひ換へれば偉大なる売文の徒の苦心を待つて成れるものなり。羅馬は一日に成るべからず。文章亦羅馬に異らむや。この文章の興廃に関する仮名遣改定案の如き、軽々にこれを行はむとするは紅葉、露伴、一葉、美妙、蘇峯、樗牛、子規、漱石、鴎外、逍遥等の先達を侮辱するも甚しと言ふべし。否、彼等の足跡を踏める僕等天下の売文の徒を侮辱するも甚しと言ふべし。僕等は句読点の原則すら確立せざる言語上の暗黒時代に生まれたるものなり。この混沌たる暗黒時代に一縷の光明を与ふるものは僕等の先達並びに民間の学者の纔《わづ》かに燈心を加へ来れる二千年来の常夜燈あるのみ。若しこの常夜燈にして光明を失はむ乎、僕等の命休すべく、日本の文章衰ふべし。我謹厳なる委員諸公は僕等の命休するも泰然たらむは疑ふべからず。(同時に又僕等の墓上の松颯々の声を生ずるの時に当り、僕等の作品を教科書に加へ、併せて作者の夢にも知らざる註釈を附せむも疑ふべからず。)然れども思へ。中堂の猛火、東叡山の天を焦がしてより日本の文章に貢献したるものは文部省なるか僕等なるかを。明治三十三年以来文部省の計画したる幾多の改革は一たびも文章に裨益したるを聞かず。却つて語格仮名遣の誤謬を天下に蔓延せしめたるのみ。その弊害を知らむとするものは今に至つて誤謬に富める新聞雑誌書籍等――たとへば僕の小説集を見るべし。しかも文部省はこれを以て未だその破壊慾を満たしたりと做さず、たとひ常談にも何にもせよ、今度の仮名遣改定案を発表したるはかの爆弾事件なるものと軌を一にしたる常談なり。僕は警視庁保安課のかかる常談を取締まるに甚だ寛なるを怪まざる能はず。
僕は勿論山田孝雄氏の驥尾に附する蒼蠅なり。只雑誌「明星」の読者を除ける一天四海の恒河沙人は必しも仮名遣改定案の愚挙たるを知れりと言ふべからず。即ち予言者ヨハネの如く、或は救世軍の太鼓の如く山田氏の公論を広告するに声を大にせる所以なり。然れども野人礼に嫻《なら》はず、妄りに猥雑の言を弄し、上は山田孝雄氏より下は我謹厳なる委員諸公を辱めたるはその罪素より少からず。今ペンを擱かむとするに当り、謹んで海恕を乞ひ奉る。死罪々々。
底本:「芥川龍之介全集 第十二巻」岩波書店
1996(平成8)年10月8日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:松永正敏
2002年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボラ
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング