英吉利《イギリス》訳によつたのである。ケエリイの英吉利訳によりながら、ダンテの「美しさ」を云々《うんぬん》するのは或は滑稽に堕ちるのであらう。(僕も亦ケエリイの外は読んだことはない。)しかしダンテの「美しさ」はたとひケエリイの英吉利訳だけ読んでも、幾分か感ぜられるのは確かである。……
 それから又「神曲」は一面には晩年のダンテの自己弁護である。公金費消か何かの嫌疑《けんぎ》を受けたダンテはやはり僕等自身のやうに自己弁護を必要としたのに違ひない。しかしダンテの達した天国は僕には多少退屈である。それは僕等は事実上地獄を歩いてゐる為であらうか? 或は又ダンテも浄罪界の外に登ることの出来なかつた為であらうか?……
 僕等は皆超人ではない。あの逞《たくま》しいロダンさへ名高いバルザツクの像を作り、世間の悪評を受けた時には神経的に苦しんだのである。故郷を追はれたダンテも亦神経的に苦しんだのに違ひない。殊に死後には幽霊になり、彼の息子に現れたと云ふことは幾分かダンテの体質を――彼の息子に遺伝したダンテの体質を示してゐるであらう。ダンテは実際ストリントベリイのやうに地獄の底から脱け出して来た。現に「神曲」の浄罪界は病後の歓びに近いものを持つてゐる。……
 しかしそれ等はダンテの皮下一寸に及ばないことばかりであらう。正宗氏はあの論文の中にダンテの骨肉を味はつてゐる。あの論文の中にあるのは十三世紀でもなければ伊太利《イタリイ》でもない。唯僕等のゐる娑婆《しやば》界である。平和を、唯平和を、――これはダンテの願ひだつたばかりではない。同時に又ストリントベリイの願ひだつた。僕は正宗氏のダンテを仰がずに[#「仰がずに」に傍点]ダンテを見た[#「見た」に傍点]ことを愛してゐる。ベアトリチエは正宗氏の言ふやうに女人よりもはるかに天人に近い。若しダンテを読んだ後、目《ま》のあたりにベアトリチエに会つたとしたならば、僕等は必ず失望するであらう。
 僕はこの文章を書いてゐるうちにふとゲエテのことを思ひ出した。ゲエテの描いたフリイデリケは殆ど可憐《かれん》そのものである。が、ボンの大学教授ネエケはフリイデリケの必しもさう云ふ女人でないことを発表した。〔Du:ntzer〕 等の理想主義者たちは勿論この事実を信じてゐない。しかしゲエテ自身もネエケの言葉の偽《いつは》りでないことを認めてゐる。のみならずフリイデリケの住んでゐた Sesenheim の村も亦ゲエテの描いたのとは違つてゐたらしい。Tieck はわざわざこの村を尋ね、「後悔した」とさへ語つてゐる。ベアトリチエも亦同じことであらう。けれどもかう云ふベアトリチエはベアトリチエ自身を示さないにもせよ、ダンテ自身を示してゐる。ダンテは晩年に至つても、所謂「永遠の女性」を夢みてゐた。しかし所謂「永遠の女性」は天国の外には住んでゐない。のみならずその天国は「しないことの後悔[#「しないことの後悔」に傍点]」に充ち満ちてゐる。丁度地獄は炎の中に「したことの後悔[#「したことの後悔」に傍点]」を広げてゐるやうに。
 僕はダンテ論を読んでゐるうちに鉄仮面の下にある正宗氏の双眼の色を感じた。古人は「君看双眼色《きみみよさうがんのいろ》 不語似無愁《かたらざればうれひなきににたり》」と言つた。やはり正宗氏の双眼の色も、――しかし僕は恐れてゐる。正宗氏は或はこの双眼も義眼であると言ふかも知れない。

     二十二 近松門左衛門

 僕は谷崎潤一郎、佐藤春夫の両氏と一しよに久しぶりに人形芝居を見物した。人形は役者よりも美しい。殊《こと》に動かずにゐる時は綺麗《きれい》である。が、人形を使つてゐる黒ん坊と云ふものは薄気味悪い。現にゴヤは人物の後に度たびああ云ふものをつけ加へた。僕等も或はああ云ふものに、――無気味な運命に駆《か》られてゐるのであらう。……
 けれども僕の言ひたいのは人形よりも近松門左衛門である。僕は小春《こはる》治兵衛《ぢへゑ》を見てゐるうちに今更のやうに近松を考へ出した。近松は写実主義者西鶴に対し、理想主義者の名を博してゐる。僕は近松の人生観を知らない。近松は或は天を仰いで僕等の小を歎いてゐたであらう。或は又天気模様を考へては明日の入りを気遣つてゐたであらう。しかしそれは今日では誰も知らないことは確かである。唯近松の浄瑠璃《じやうるり》を見れば、近松は決して理想主義者ではない。理想主義者では――理想主義者とは一体何であらう? 西鶴は文芸上の写実主義者である。同時に又人生観上の現実主義者である。(少くとも作品によれば)しかし文芸上の写実主義者は必ずしも人生観上の現実主義者ではない。いや、「マダム・ボヴアリイ」を書いた作家は文芸上にも又ロマン主義者だつた。若し夢を求めることをロマン主義と呼ぶとすれば、近松も亦ロマン主義
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