そし》りを受けることを顧みないとすれば。)
 僕はかう云ふことを考へた揚句《あげく》、畢竟《ひつきやう》森先生は僕等のやうに神経質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢《つひ》に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽斎《しぶえちうさい》」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聡明の資と共に僕を動かさずには措《お》かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書斎に和服を着た[#「和服を着た」に傍点]先生と話してゐた。方丈《はうぢやう》の室に近い書斎の隅には新らしい薄縁《うすべ》りが一枚あり、その上には虫干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。――「この間柴野|栗山《りつざん》(?)の手紙を集めて本に出した人が来たから、僕はあの本はよく出来てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎《あいにく》月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出来ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北条|霞亭《かてい》の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覚えてゐる。かう言ふ先生に瞠目《だうもく》するものは必しも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白状すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を残したいと思つてゐる一人である。

     十四 白柳秀湖氏

 僕は又この頃|白柳秀湖《しらやなぎしうこ》氏の「声なきに聴く」と云ふ文集を読み、「僕の美学」、「羞恥心《しうちしん》に関する考察」、「動物の発性期と食物との関係」等の小論文に少からず興味を感じた。「僕の美学」は題の示すやうに正に白柳氏の美学に当り、「羞恥心に関する考察」は白柳氏の倫理学に当るものである。今後者は暫く問はず、前者をちよつと紹介すれば、美は僕等の生活から何の関係もなしに生まれたものではない。僕等の祖先は焚火を愛し、林間に流れる水を愛し、肉を盛る土器を愛し、敵を打ち倒す棒を愛した。美はこれ等の生活的必要品(?)からおのづから生まれて来たのである。……
 かう云ふ小論文は少くとも僕には現世に多いコントよりも遙に尊敬に価するものである。(白柳氏はこの小論文の末にこれは「文壇の一隅に唯物美学の呼声、若しくはそれに関する飜訳の現れる絶対以前」に書いたと註してゐる。)僕は美学などは全然知らない。況《いはん》や唯物美学などと云ふものには更に縁のない衆生《しゆじやう》である。しかし白柳氏の美の発生論は僕にも僕の美学を作る機会を与へた。白柳氏は造形美術以外の美の発生に言及してゐない。僕はもう十数年前、或山中の宿に鹿の声を聞き、何かしみじみと人恋しさを感じた。あらゆる抒情詩はこの鹿の声に、――雌を呼ぶ雄の声に発したのであらう。しかしこの唯物美学は俳人は勿論、遠い昔の歌人さへ知つてゐたかも知れない。唯叙事詩に至つては確かに太古の民のゴシツプに起源を発してゐたのであらう。「イリアツド」は神々のゴシツプである。その又ゴシツプは僕等には野蛮な荘厳《さうごん》に充《み》ち満ちた美を感じさせるのに違ひない。しかしそれは「僕等には」である。太古の民は「イリアツド」に彼等の歓びや悲しみや苦しみを感ぜずにはゐなかつたであらう。のみならずそこに彼等の心の燃え上るのを感ぜずにはゐなかつたであらう。……
 白柳秀湖氏は美の中に僕等の祖先の生活を見てゐる。が、僕等は僕等ばかりではない。アフリカの沙漠に都会の出来る頃には僕等の子孫の祖先になるのである。従つて僕等の心もちは丁度地下の泉のやうに僕等の子孫にも伝はるであらう。僕は白柳秀湖氏のやうに焚き火に親しみを感じるものである。同時に又その親しみに太古の民を思ふものである。(僕は「槍ヶ岳紀行」の中にちよつとこのことを書いたつもりである。)しかし「猿に近い吾々の祖先」は彼等の焚き火を燃やす為にどの位苦心をしたことであらう。焚き火を燃やすことを発明したのは勿論天才だつたのに違ひない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたものはやはり何人かの天才たちである。僕はこの苦心を思ふ時、不幸にも「今の芸術といふものなど、無くなつてしまつてもよい」とは考へない。

     十五 「文芸評論」

 批評も亦文芸上の一形式である。僕等の誉《ほ》めたり貶《けな》したりするのも畢竟《ひつきやう》は自己を表現する為であらう。幕の上に映つたアメリカの役者に、――しかも死んでしまつたヴアレンテイノに拍手を送つて吝《をし》まないのは相手を歓ばせる為でも何でもない。唯好意を、――惹《ひ》いては自己を表現
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