よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品である。立派に?――この人生を立派に生きることは第一には神のやうに生きることであらう。志賀直哉氏も亦《また》地上にゐる神のやうには生きてゐないかも知れない。が、少くとも清潔に、(これは第二の美徳である)生きてゐることは確かである。勿論僕の「清潔に」と云ふ意味は石鹸ばかり使つてゐることではない。「道徳的に清潔に」と云ふ意味である。これは或は志賀直哉氏の作品を狭いものにしたやうに見えるかも知れない。が、実は狭いどころか、反《かへ》つて広くしてゐるのである。なぜ又広くしてゐるかと言へば、僕等の精神的生活は道徳的属性を加へることにより、その属性を加へない前よりも広くならずにはゐないからである。(勿論道徳的属性を加へると云ふ意味も教訓的であると云ふことではない。物質的苦痛を除いた苦痛は大半はこの属性の生んだものである。谷崎潤一郎氏の悪魔主義がやはりこの属性から生まれてゐることは言ふまでもあるまい。〔悪魔は神の二重人格者である。〕更に例を求めるとすれば、僕は正宗白鳥氏の作品にさへ屡々《しばしば》論ぜられる厭世《えんせい》主義よりも寧ろ基督《キリスト》的魂の絶望を感じてゐるものである。)この属性は志賀氏の中に勿論深い根を張つてゐたのであらう。しかし又この属性を刺戟する上には近代の日本の生んだ道徳的天才、――恐らくはその名に価《あたひ》する唯一の道徳的天才たる武者小路実篤氏の影響も決して少くはなかつたであらう。念の為にもう一度繰り返せば、志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である。それは同氏の作品の中にある道徳的|口気《こうき》にも窺《うかが》はれるであらう。(「佐々木の場合」の末段はその著しい一例である。)同時に又同氏の作品の中にある精神的苦痛にも窺はれないことはない。長篇「暗夜行路」を一貫するものは実にこの感じ易い道徳的魂の苦痛である。
 (二)[#「(二)」は縦中横] 志賀直哉氏は描写の上には空想を頼まないリアリストである。その又リアリズムの細《さい》に入つてゐることは少しも前人の後に落ちない。若しこの一点を論ずるとすれば[#「若しこの一点を論ずるとすれば」に傍点]、僕は何の誇張もなしにトルストイよりも細かいと言ひ得るであらう。これは又同氏の作品を時々|平板《へいばん》に了《をは》らせてゐる。が、この一点に注目するもの[#「この一点に注目するもの」に傍点]はかう云ふ作品にも満足するであらう。世人の注目を惹《ひ》かなかつた、「廿代一面《にじふだいいちめん》」はかう云ふ作品の一例である。しかしその効果を収めたものは、(たとへば小品「鵠沼行《くげぬまゆき》」にしても)写生の妙を極めないものはない。次手《ついで》に「鵠沼行」のことを書けば、あの作品のデイテエルは悉く事実に立脚してゐる。が、「丸くふくれた小さな腹には所々に砂がこびりついて居た」と云ふ一行だけは事実ではない。それを読んだ作中人物の一人は「ああ、ほんたうにあの時には××ちやんのおなかに砂がついてゐた」と言つた!
 (三)[#「(三)」は縦中横] しかし描写上のリアリズムは必しも志賀直哉氏に限つたことではない。同氏はこのリアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる。同氏のエピゴオネンの及ばないのはこの一点にあると言つても差し支へない。これこそ又僕等に――少くとも僕に最も及び難い特色である。僕は志賀直哉氏自身もこの一点を意識してゐるかどうかは必しもはつきりとは保証出来ない。(あらゆる芸術的活動を意識の閾《しきゐ》の中に置いたのは十年前の僕である。)しかしこの一点はたとひ作家自身は意識しないにもせよ、確かに同氏の作品に独特の色彩を与へるものである。「焚火」、「真鶴《まなづる》」等の作品は殆《ほとん》どかう云ふ特色の上に全生命を託したものであらう。それ等の作品は詩歌にも劣らず(勿論この詩歌と云ふ意味は発句《ほつく》をも例外にするのではない。)頗《すこぶ》る詩歌的に出来上つてゐる。これは又現世の用語を使へば、「人生的」と呼ばれる作品の一つ、――「憐れな男」にさへ看取《かんしゆ》出来るであらう。ゴム球《だま》のやうに張つた女の乳房に「豊年だ。豊年だ」を唄ふことは到底詩人以外に出来るものではない。僕は現世の人々がかう云ふ志賀直哉氏の「美しさに」比較的[#「比較的」に傍点]注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。(「美しさ」は極彩色《ごくさいしき》の中にあるばかりではない。)同時に又他の作家たちの美しさにもやはり注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。
 (四)[#「(四)」は縦中横] 更に又やはり作家たる僕は志賀直哉氏のテクニイクにも注意を怠《おこた》らない一人である。「暗夜行路」の後篇はこの同氏のテクニイクの上にも一進歩を遂げてゐ
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