。けれども同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、哂うのにどことなく容子《ようす》がちがう。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽《こっけい》に見えると云えば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
 ――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。
 内供は、誦《ず》しかけた経文をやめて、禿《は》げ頭を傾けながら、時々こう呟《つぶや》く事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、傍《かたわら》にかけた普賢《ふげん》の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶《おも》い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾《いかん》ながらこの問に答を与える明が欠けていた。
 ――人間の心には互に矛盾《むじゅん》した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥《おとしい》れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
 そこで内供は日毎に機嫌《きげん》が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱《しか》りつける。しまいには鼻の療治《りょうじ》をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪《ほうけんどん》の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯《いたずら》な中童子である。ある日、けたたましく犬の吠《ほ》える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片《きれ》をふりまわして、毛の長い、痩《や》せた尨犬《むくいぬ》を逐《お》いまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃《はや》しながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上《はなもた》げの木だったのである。
 内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨《うら》めしくなった。
 するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸《ふうたく》の鳴る音が、うるさいほど枕に通《かよ》って来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒《かゆ》いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気《すいき》が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。
 ――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
 内供は、仏前に香花《こうげ》を供《そな》えるような恭《うやうや》しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏《いちょう》や橡《とち》が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金《きん》を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪《くりん》がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀《しとみ》を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。
 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜《ゆうべ》の短い鼻ではない。上唇の上から顋《あご》の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂《わら》うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁《ささや》いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
[#地から1字上げ](大正五年一月)



底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1997(平成9)年4月15日第14刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:平山誠、野口英司
校正:もりみつじゅんじ
1997年11月4日公開
2004年3月7日修正
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