めた黄塵《こうじん》の中へまっしぐらに走って行ってしまった。……
 その後《ご》の半三郎はどうなったか? それは今日《こんにち》でも疑問である。もっとも「順天時報」の記者は当日の午後八時前後、黄塵に煙った月明りの中に帽子《ぼうし》をかぶらぬ男が一人、万里《ばんり》の長城《ちょうじょう》を見るのに名高い八達嶺下《はったつれいか》の鉄道線路を走って行ったことを報じている。が、この記事は必ずしも確実な報道ではなかったらしい。現にまた同じ新聞の記者はやはり午後八時前後、黄塵を沾《うるお》した雨の中に帽子をかぶらぬ男が一人、石人石馬《せきじんせきば》の列をなした十三陵《じゅうさんりょう》の大道《だいどう》を走って行ったことを報じている。すると半三郎は××胡同《ことう》の社宅の玄関を飛び出した後《のち》、全然どこへどうしたか、判然しないと言わなければならぬ。
 半三郎の失踪《しっそう》も彼の復活と同じように評判《ひょうばん》になったのは勿論である。しかし常子、マネエジャア、同僚、山井博士、「順天時報」の主筆等はいずれも彼の失踪を発狂《はっきょう》のためと解釈した。もっとも発狂のためと解釈するのは馬の脚のためと解釈するのよりも容易だったのに違いない。難を去って易《い》につくのは常に天下の公道である。この公道を代表する「順天時報」の主筆|牟多口氏《むだぐちし》は半三郎の失踪した翌日、その椽大《てんだい》の筆を揮《ふる》って下《しも》の社説を公《おおやけ》にした。――
「三菱社員忍野半三郎氏は昨夕《さくゆう》五時十五分、突然発狂したるが如く、常子夫人の止《と》むるを聴《き》かず、単身いずこにか失踪したり。同仁《どうじん》病院長山井博士の説によれば、忍野氏は昨夏|脳溢血《のういっけつ》を患《わずら》い、三日間|人事不省《じんじふせい》なりしより、爾来《じらい》多少精神に異常を呈せるものならんと言う。また常子夫人の発見したる忍野氏の日記に徴するも、氏は常に奇怪なる恐迫観念を有したるが如し。然れども吾人《ごじん》の問わんと欲するは忍野氏の病名|如何《いかん》にあらず。常子夫人の夫たる忍野氏の責任如何にあり。
「それわが金甌無欠《きんおうむけつ》の国体は家族主義の上に立つものなり。家族主義の上に立つものとせば、一家の主人たる責任のいかに重大なるかは問うを待たず。この一家の主人にして妄《みだり》に発狂する権利ありや否や? 吾人はかかる疑問の前に断乎《だんこ》として否と答うるものなり。試みに天下の夫にして発狂する権利を得たりとせよ。彼等はことごとく家族を後《あと》に、あるいは道塗《どうと》に行吟《こうぎん》し、あるいは山沢《さんたく》に逍遥《しょうよう》し、あるいはまた精神病院|裡《り》に飽食暖衣《ほうしょくだんい》するの幸福を得べし。然れども世界に誇るべき二千年来の家族主義は土崩瓦解《どほうがかい》するを免《まぬか》れざるなり。語に曰《いわく》、其罪を悪《にく》んで其人を悪まずと。吾人は素《もと》より忍野氏に酷《こく》ならんとするものにあらざるなり。然れども軽忽《けいこつ》に発狂したる罪は鼓《こ》を鳴らして責めざるべからず。否、忍野氏の罪のみならんや。発狂禁止令を等閑《とうかん》に附せる歴代《れきだい》政府の失政をも天に替《かわ》って責めざるべからず。
「常子夫人の談によれば、夫人は少くとも一ヶ年間、××胡同《ことう》の社宅に止《とど》まり、忍野氏の帰るを待たんとするよし。吾人は貞淑《ていしゅく》なる夫人のために満腔《まんこう》の同情を表《ひょう》すると共に、賢明なる三菱《みつびし》当事者のために夫人の便宜《べんぎ》を考慮するに吝《やぶさ》かならざらんことを切望するものなり。……」
 しかし少くとも常子だけは半年ばかりたった後《のち》、この誤解に安んずることの出来ぬある新事実に遭遇《そうぐう》した。それは北京《ペキン》の柳や槐《えんじゅ》も黄ばんだ葉を落としはじめる十月のある薄暮《はくぼ》である。常子は茶の間《ま》の長椅子にぼんやり追憶に沈んでいた。彼女の唇《くちびる》はもう今では永遠の微笑を浮かべていない。彼女の頬《ほお》もいつの間《ま》にかすっかり肉を失っている。彼女は失踪した夫のことだの、売り払ってしまったダブル・ベッドのことだの、南京虫《なんきんむし》のことだのを考えつづけた。すると誰かためらい勝ちに社宅の玄関のベルを押した。彼女はそれでも気にせずにボオイの取り次ぎに任かせて措《お》いた。が、ボオイはどこへ行ったか、容易に姿を現さない。ベルはその内にもう一度鳴った。常子はやっと長椅子を離れ、静かに玄関へ歩いて行った。
 落ち葉の散らばった玄関には帽子《ぼうし》をかぶらぬ男が一人、薄明《うすあか》りの中に佇《たたず》んでいる。帽子を、――いや、帽子
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