をかぶらぬばかりではない。男は確かに砂埃《すなほこ》りにまみれたぼろぼろの上衣《うわぎ》を着用している。常子はこの男の姿にほとんど恐怖に近いものを感じた。
「何か御用でございますか?」
男は何とも返事をせずに髪の長い頭を垂れている。常子はその姿を透《す》かして見ながら、もう一度恐る恐る繰り返した。
「何か、……何か御用でございますか?」
男はやっと頭を擡《もた》げた。
「常子、……」
それはたった一ことだった。しかしちょうど月光のようにこの男を、――この男の正体を見る見る明らかにする一ことだった。常子は息を呑《の》んだまま、しばらくは声を失ったように男の顔を見つめつづけた。男は髭《ひげ》を伸ばした上、別人のように窶《やつ》れている。が、彼女を見ている瞳《ひとみ》は確かに待ちに待った瞳だった。
「あなた!」
常子はこう叫びながら、夫の胸へ縋《すが》ろうとした。けれども一足《ひとあし》出すが早いか、熱鉄《ねってつ》か何かを踏んだようにたちまちまた後ろへ飛びすさった。夫は破れたズボンの下に毛だらけの馬の脚を露《あらわ》している。薄明《うすあか》りの中にも毛色の見える栗毛《くりげ》の馬の脚を露《あらわ》している。
「あなた!」
常子はこの馬の脚に名状《めいじょう》の出来ぬ嫌悪《けんお》を感じた。しかし今を逸《いっ》したが最後、二度と夫に会われぬことを感じた。夫はやはり悲しそうに彼女の顔を眺めている。常子はもう一度夫の胸へ彼女の体を投げかけようとした。が、嫌悪はもう一度彼女の勇気を圧倒した。
「あなた!」
彼女が三度目にこう言った時、夫はくるりと背を向けたと思うと、静かに玄関をおりて行った。常子は最後の勇気を振い、必死に夫へ追い縋《すが》ろうとした。が、まだ一足《ひとあし》も出さぬうちに彼女の耳にはいったのは戞々《かつかつ》と蹄《ひづめ》の鳴る音である。常子は青い顔をしたまま、呼びとめる勇気も失ったようにじっと夫の後《うし》ろ姿を見つめた。それから、――玄関の落ち葉の中に昏々《こんこん》と正気《しょうき》を失ってしまった。……
常子はこの事件以来、夫の日記を信ずるようになった。しかしマネエジャア、同僚、山井博士、牟多口氏等《むだぐちしら》の人びとは未《いま》だに忍野半三郎《おしのはんざぶろう》の馬の脚になったことを信じていない。のみならず常子の馬の脚を見たのも幻
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