じたのも無理ではなかったのに違いない。なぜと言えば、――
半三郎のまず警戒したのは同僚の疑惑を避けることである。これは彼の苦心の中でも比較的楽な方《ほう》だったかも知れない。が、彼の日記によれば、やはりいつも多少の危険と闘《たたか》わなければならなかったようである。
「七月×日 どうもあの若い支那人のやつは怪《け》しからぬ脚をくつけたものである。俺《おれ》の脚は両方とも蚤《のみ》の巣窟《そうくつ》と言っても好《い》い。俺は今日も事務を執《と》りながら、気違いになるくらい痒《かゆ》い思いをした。とにかく当分は全力を挙げて蚤退治《のみたいじ》の工夫《くふう》をしなければならぬ。……
「八月×日 俺は今日《きょう》マネエジャアの所へ商売のことを話しに行った。するとマネエジャアは話の中《うち》にも絶えず鼻を鳴らせている。どうも俺の脚の臭《にお》いは長靴の外にも発散するらしい。……
「九月×日 馬の脚を自由に制御《せいぎょ》することは確かに馬術よりも困難である。俺は今日|午休《ひるやす》み前に急ぎの用を言いつけられたから、小走《こばし》りに梯子段《はしごだん》を走り下りた。誰でもこう言う瞬間には用のことしか思わぬものである。俺もそのためにいつの間《ま》にか馬の脚を忘れていたのであろう。あっと言う間に俺の脚は梯子段の七段目を踏み抜いてしまった。……
「十月×日 俺はだんだん馬の脚を自由に制御することを覚え出した。これもやっと体得して見ると、畢竟《ひっきょう》腰の吊《つ》り合《あい》一つである。が、今日は失敗した。もっとも今日の失敗は必ずしも俺の罪ばかりではない。俺は今朝《けさ》九時前後に人力車《じんりきしゃ》に乗って会社へ行った。すると車夫は十二銭の賃銭《ちんせん》をどうしても二十銭よこせと言う。おまけに俺をつかまえたなり、会社の門内へはいらせまいとする。俺は大いに腹が立ったから、いきなり車夫を蹴飛《けと》ばしてやった。車夫の空中へ飛び上《あが》ったことはフット・ボオルかと思うくらいである。俺は勿論|後悔《こうかい》した。同時にまた思わず噴飯《ふんぱん》した。とにかく脚を動かす時には一層細心に注意しなければならぬ。……」
しかし同僚《どうりょう》を瞞着《まんちゃく》するよりも常子の疑惑を避けることは遥《はる》かに困難に富んでいたらしい。半三郎は彼の日記の中に絶えずこの困難を
前へ
次へ
全14ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング