絵葉書《えはがき》や日暦《ひごよみ》――すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦《きら》びやかに続いているかと思われる。今夜に限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃風《ほこりかぜ》も、コオトの裾を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福……
その内にふとお君さんが気がつくと、二人《ふたり》はいつか横町《よこちょう》を曲ったと見えて、路幅の狭い町を歩いている。そうしてその町の右側に、一軒の小さな八百屋《やおや》があって、明《あかる》く瓦斯《ガス》の燃えた下に、大根、人参《にんじん》、漬《つ》け菜《な》、葱《ねぎ》、小蕪《こかぶ》、慈姑《くわい》、牛蒡《ごぼう》、八《や》つ頭《がしら》、小松菜《こまつな》、独活《うど》、蓮根《れんこん》、里芋、林檎《りんご》、蜜柑の類が堆《うずたか》く店に積み上げてある。その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍子《ひょうし》に、葱の山の中に立っている、竹に燭奴《つけぎ》を挟んだ札《ふだ》の上へ落ちた。札には墨黒々《すみくろぐろ》と下手《へた》な字で、「一束《ひとたば》四銭《よんせん》」と書いてある。あらゆる物価が暴騰した今日《こんにち》、一束四銭と云う葱は滅多にない。この至廉《しれん》な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から覚めた。間髪《かんはつ》を入れずとは正にこの謂《いい》である。薔薇《ばら》と指環と夜鶯《ナイチンゲエル》と三越《みつこし》の旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまった。その代り間代《まだい》、米代、電燈代、炭代、肴代《さかなだい》、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰《あたか》も火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群《むらが》って来る。お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気《あっけ》にとられている田中君を一人後に残して、鮮《あざやか》な瓦斯《ガス》の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢《きゃしゃ》な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
「あれを二束《ふたた
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