#「はるれや」に傍線]、はるれや[#「はるれや」に傍線]と唱へ居り候。加之《しかのみならず》、右紅毛人の足下《あしもと》には、篠、髪を乱し候儘、娘|里《さと》を掻き抱き候うて、失神致し候如く、蹲《うづくま》り居り候。別して、私眼を驚かし候は、里、両手にてひしと、篠|頸《うなじ》を抱き居り、母の名とはるれや[#「はるれや」に傍線]と、代る代る、あどけ無き声にて、唱へ居りし事に御座候。尤も、遠眼の事とて、確《しか》とは弁《わきま》へ難く候へども、里血色至極|麗《うるは》しき様に相見え、折々母の頸より手を離し候うて、香炉様の物より立ち昇り候煙を捉へんとする真似など致し居り候。然れば、私馬より下り、里蘇生致し候次第に付き、村方の人々に委細相尋ね候へば、右紅毛の伴天連《ばてれん》ろどりげ[#「ろどりげ」に傍線]儀、今朝《こんてう》、伊留満《いるまん》共相従へ、隣村より篠宅へ参り、同人|懺悔《こひさん》聞き届け候上、一同宗門仏に加持致し、或は異香を焚《た》き薫《くゆ》らし、或は神水を振り濺《そそ》ぎなど致し候所、篠の乱心は自《おのづか》ら静まり、里も程無く蘇生致し候由、皆々恐しげに申し聞かせ候。古来一旦落命致し候上、蘇生仕り候|類《たぐひ》、元より少からずとは申し候へども、多くは、酒毒に中《あた》り、乃至は瘴気《しやうき》に触れ候者のみに有之《これあり》、里の如く、傷寒の病にて死去致し候者の、還魂《くわんこん》仕り候|例《ためし》は、未嘗《いまだかつて》承り及ばざる所に御座候へば、切支丹宗門の邪法たる儀此一事にても分明《ぶんみやう》致す可く、別して伴天連当村へ参り候節、春雷頻に震ひ候も、天の彼を憎ませ給ふ所かと推察仕り候。
猶《なほ》、篠《しの》及娘|里《さと》当日|伴天連《ばてれん》ろどりげ[#「ろどりげ」に傍線]同道にて、隣村へ引移り候次第、並に慈元寺《じげんじ》住職日寛殿計らひにて同人宅焼き棄て候次第は、既に名主塚越弥左衛門殿より、言上《ごんじやう》仕り候へば、私見聞致し候仔細は、荒々《あらあら》右にて相尽き申す可く候。但《ただし》、万一|記《しる》し洩れも有之候節は、後日|再応《さいおう》書面を以て言上仕る可く、先《まづ》は私覚え書斯くの如くに御座候。以上
申《さる》年三月二十六日
伊予国宇和|郡《ごほり》――村
[#地から3字上げ]医師 尾形了斎
[#地から2字上げ](大正五年十二月)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年10月5日公開
2004年2月19日修正
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