どうしてってこともないけれども。……」
 僕等は夕飯《ゆうはん》をすませた後《のち》、ちょうど風の落ちたのを幸い、海岸へ散歩に出かけることにした。太陽はとうに沈んでいた。しかしまだあたりは明るかった。僕等は低い松の生《は》えた砂丘《さきゅう》の斜面に腰をおろし、海雀《うみすずめ》の二三羽飛んでいるのを見ながら、いろいろのことを話し合った。
「この砂はこんなに冷《つめ》たいだろう。けれどもずっと手を入れて見給え。」
 僕は彼の言葉の通り、弘法麦《こうぼうむぎ》の枯《か》れ枯《が》れになった砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残っていた。
「うん、ちょっと気味が悪いね。夜になってもやっぱり温《あたたか》いかしら。」
「何、すぐに冷《つめ》たくなってしまう。」
 僕はなぜかはっきりとこう云う対話を覚えている。それから僕等の半町ほど向うに黒ぐろと和《なご》んでいた太平洋も。……

        六

 彼の死んだ知らせを聞いたのはちょうど翌年《よくとし》の旧正月だった。何《なん》でも後《のち》に聞いた話によれば病院の医者や看護婦たちは旧正月を祝《いわ》うために夜更《よふ》けまで歌留多《かるた》会をつづけていた。彼はその騒《さわ》ぎに眠られないのを怒《いか》り、ベッドの上に横たわったまま、おお声に彼等を叱《しか》りつけた、と同時に大喀血《だいかっけつ》をし、すぐに死んだとか云うことだった。僕は黒い枠《わく》のついた一枚の葉書を眺めた時、悲しさよりもむしろはかなさを感じた。
「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より御貸与《ごたいよ》の書籍もその中《うち》にまじり居り候|節《せつ》は不悪《あしからず》御赦《おゆる》し下され度《たく》候《そうろう》。」
 これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だった。僕はこう云う文句を読み、何冊かの本が焔《ほのお》になって立ち昇る有様を想像した。勿論それ等の本の中にはいつか僕が彼に貸したジァン・クリストフの第一巻もまじっているのに違いなかった。この事実は当時の感傷的な僕には妙に象徴《しょうちょう》らしい気のするものだった。
 それから五六日たった後《のち》、僕は偶然落ち合ったKと彼のことを話し合った。Kは不相変《あいかわらず》冷然としていたのみならず、巻煙草を銜《くわ》えたまま、こんなことを僕に尋ねたりした。
「Xは女を知っていたかしら?」
「さあ、どうだか……」
 Kは僕を疑うようにじっと僕の顔を眺めていた。
「まあ、それはどうでも好《い》い。……しかしXが死んで見ると、何か君は勝利者らしい心もちも起って来はしないか?」
 僕はちょっと逡巡《しゅんじゅん》した。するとKは打ち切るように彼自身の問に返事をした。
「少くとも僕はそんな気がするね。」
 僕はそれ以来Kに会うことに多少の不安を感ずるようになった。
[#地から1字上げ](大正十五年十一月十三日)



底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月10日修正
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