飯田蛇笏
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)頻《しきり》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)影を正うす[#「影を正うす」に傍点]
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或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻《しきり》に蛇笏を褒めはじめた。当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。勿論蛇笏の名も知らなかった。が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。正直に又「つまらんね」とも云った。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。句もいくつか抜いてあった。僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思った。爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。
その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。
当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透《す》かさず「君と雖《いえど》も畢《つい》に蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。僕は「常談云っちゃいけない。僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす[#「影を正うす」に傍点]」と云う句を「連山影を斉うす[#「影を斉うす」に傍点]」と間違えて僕に聞かせたからである。
しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意していた。或時句作をす
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