ある。現に短歌は発句のやうに季題などに手《た》よつてゐない。これは何も発句よりも十四音だけ多いのにはよらぬ筈である。

       三 詩語

 季題は発句には無用である。しかし季題は無用にしても、詩語は決して無用ではない。たとへば行春と云ふ言葉などは僕等の祖先から伝へ来つた、美しい語感を伴つてゐる。かう云ふ語感を軽蔑するのは僕等自身を軽蔑するに等しい。
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行春を近江の人と惜しみける 芭蕉
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追記。詩語と詩語でない言葉との差別は勿論事実上ぼんやりしてゐる。
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       四 調べ

 発句も既に詩であるとすれば、おのづから調べを要する筈である。元禄びとには元禄びとの調べがあり、大正びとには大正びとの調べがあると言ふのは必しも謬見《びうけん》と称し難い。しかしその調べと云ふ意味を十七音か否かに限るのは所謂《いはゆる》新傾向の作家たちの謬見である。
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年の市線香買ひに出でばやな 芭蕉
夏の月|御油《ごゆ》より出でて赤坂や 同上
早稲《わせ》の香やわけ入る右は有磯海《ありそうみ》 同上
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 これ等の句は悉《ことごと》く十七音でありながら、それぞれ調べを異にしてゐる。かう云ふ調べの上の妙は大正びとは畢《つひ》に元禄びとに若《し》かない。子規居士は俊邁《しゆんまい》の材により、頗《すこぶ》る引き緊つた調べを好んだ。しかしその余弊は子規居士以後の発句の調べを粗雑にした。単にその調べの上の工夫を凝らしたと云ふ点から言へば所謂《いはゆる》新傾向の作家たちは十七音によらないだけに或は俳人たちに勝つてゐるであらう。 (十五・四・二十三)
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 附記。この文を草した後、山崎楽堂氏の「俳句格調の本義」(詩歌時代所載)を読み、恩を受けたことも少くない。殊に十七音に従へと言ふ僕の形式上の考へなどはもつと考へても好いと思つてゐる。次手《ついで》と云つては失礼ながら、次手に感謝の意を表する次第である。
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底本:「芥川龍之介全集 第十三巻」岩波書店
   1996(平成8)年11月8日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:林 幸雄
2002年1月26日公開
2003年3月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネッ
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