呼び出しに来たのはかれこれ五時になりかかっていた。僕はまたアストラカンの帽をとった上、看守に同じことを問いかけようとした。すると看守は横を向いたまま、僕の言葉を聞かないうちにさっさと向うへ行ってしまった。「余りと言えば余り」とは実際こう云う瞬間の僕の感情に違いなかった。僕は巻煙草の吸いさしを投げつけ、控室の向うにある刑務所の玄関《げんかん》へ歩いて行った。
 玄関の石段を登った左には和服を着た人も何人か硝子《ガラス》窓の向うに事務を執《と》っていた。僕はその硝子窓をあけ、黒い紬《つむぎ》の紋つきを着た男に出来るだけ静かに話しかけた。が、顔色《かおいろ》の変っていることは僕自身はっきり意識していた。
「僕はTの面会人です。Tには面会は出来ないんですか?」
「番号を呼びに来るのを待って下さい。」
「僕は十時頃から待っています。」
「そのうちに呼びに来るでしょう。」
「呼びに来なければ待っているんですか? 日が暮れても待っているんですか?」
「まあ、とにかく待って下さい。とにかく待った上にして下さい。」
 相手は僕のあばれでもするのを心配しているらしかった。僕は腹の立っている中《うち》にもちょっとこの男に同情した。「こっちは親戚総代になっていれば、向うは刑務所総代になっている、」――そんな可笑《おか》しさも感じないのではなかった。
「もう五時過ぎになっています。面会だけは出来るように取り計《はから》って下さい。」
 僕はこう言い捨てたなり、ひとまず控室へ帰ることにした。もう暮れかかった控室の中にはあの丸髷《まるまげ》の女が一人、今度は雑誌を膝の上に伏せ、ちゃんと顔を起していた。まともに見た彼女の顔はどこかゴシックの彫刻らしかった。僕はこの女の前に坐り、未《いま》だに刑務所全体に対する弱者の反感を感じていた。
 僕のやっと呼び出されたのはかれこれ六時になりかかっていた。僕は今度は目のくりくりした、機敏らしい看守《かんしゅ》に案内され、やっと面会室の中にはいることになった。面会室は室と云うものの、精々《せいぜい》二三尺四方ぐらいだった。のみならず僕のはいったほかにもペンキ塗りの戸の幾つも並んでいるのは共同便所にそっくりだった。面会室の正面にこれも狭い廊下《ろうか》越しに半月形《はんげつがた》の窓が一つあり、面会人はこの窓の向うに顔を顕《あら》わす仕組みになっていた。
 従兄《いとこ》はこの窓の向うに、――光の乏しい硝子《ガラス》窓の向うに円まると肥《ふと》った顔を出した。しかし存外《ぞんがい》変っていないことは幾分か僕を力丈夫にした。僕等は感傷主義を交《まじ》えずに手短かに用事を話し合った。が、僕の右隣りには兄に会いに来たらしい十六七の女が一人とめどなしに泣き声を洩《も》らしていた。僕は従兄と話しながら、この右隣りの泣き声に気をとめない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。
「今度のことは全然|冤罪《えんざい》ですから、どうか皆さんにそう言って下さい。」
 従兄は切《き》り口上《こうじょう》にこう言ったりした。僕は従兄を見つめたまま、この言葉には何《なん》とも答えなかった。しかし何とも答えなかったことはそれ自身僕に息苦しさを与えない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。現に僕の左隣りには斑《まだ》らに頭の禿《は》げた老人が一人やはり半月形《はんげつがた》の窓越しに息子《むすこ》らしい男にこう言っていた。
「会わずにひとりでいる時にはいろいろのことを思い出すのだが、どうも会うとなると忘れてしまってな。」
 僕は面会室の外へ出た時、何か従兄にすまなかったように感じた。が、それは僕等同志の連帯責任であるようにも感じた。僕はまた看守に案内され、寒さの身にしみる刑務所の廊下を大股に玄関へ歩いて行った。
 ある山《やま》の手《て》の従兄の家には僕の血を分けた従姉《いとこ》が一人僕を待ち暮らしているはずだった。僕はごみごみした町の中をやっと四谷見附《よつやみつけ》の停留所へ出、満員の電車に乗ることにした。「会わずにひとりいる時には」と言った、妙に力のない老人の言葉は未《いま》だに僕の耳に残っていた。それは女の泣き声よりも一層僕には人間的だった。僕は吊《つ》り革につかまったまま、夕明りの中に電燈をともした麹町《こうじまち》の家々を眺め、今更のように「人さまざま」と云う言葉を思い出さずにはいられなかった。
 三十分ばかりたった後《のち》、僕は従兄の家の前に立ち、コンクリイトの壁についたベルの鈕《ボタン》へ指をやっていた。かすかに伝わって来るベルの音は玄関の硝子《ガラス》戸の中に電燈をともした。それから年をとった女中が一人細目に硝子戸をあけて見た後《のち》、「おや……」何《なん》とか間投詞《かんとうし》を洩らし、すぐに僕を往来に向った二階の部屋へ案内した。僕はそこ
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