くなると、いろいろな魔性《ましょう》が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言《ひとこと》でも口を利《き》いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好《い》いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」
「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」
 老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。
 杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、静《しずか》に星を眺めていました。するとかれこれ半時《はんとき》ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透《とお》り出した頃、突然空中に声があって、
「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。
 しかし杜子春は仙人の教《おしえ》通り、何とも返事をしずにいました。
 ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしく嚇《おど》しつけるのです。
 杜子春は勿論黙っていました。
 と、どこから登って来たか、爛々《らんらん》と眼を光らせた虎《とら》が一匹、忽然《こつぜん》と岩の上に躍《のぼ》り上って、杜子春の姿を睨《にら》みながら、一声高く哮《たけ》りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈《はげ》しくざわざわ揺れたと思うと、後《うしろ》の絶壁の頂からは、四斗樽《しとだる》程の白蛇《はくだ》が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
 杜子春はしかし平然と、眉毛《まゆげ》も動かさずに坐っていました。
 虎と蛇とは、一つ餌食《えじき》を狙《ねら》って、互に隙《すき》でも窺《うかが》うのか、暫くは睨合いの体《てい》でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎の牙《きば》に噛《か》まれるか、蛇の舌に呑《の》まれるか、杜子春の命は瞬《またた》く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失《う》せて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。
 すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄《すさま》じく雷《らい》が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しょに瀑《たき》のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中《なか》に、恐れ気《げ》もなく坐っていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆《くつがえ》るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟《とどろ》いたと思うと、空に渦《うず》巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
 杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに聳《そび》えた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯《いたずら》に違いありません。杜子春は漸《ようや》く安心して、額の冷汗《ひやあせ》を拭《ぬぐ》いながら、又岩の上に坐り直しました。
 が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金の鎧《よろい》を着下《きくだ》した、身の丈《たけ》三丈もあろうという、厳《おごそ》かな神将が現れました。神将は手に三叉《みつまた》の戟《ほこ》を持っていましたが、いきなりその戟の切先《きっさき》を杜子春の胸《むな》もとへ向けながら、眼を嗔《いか》らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地|開闢《かいびゃく》の昔から、おれが住居《すまい》をしている所だぞ。それも憚《はばか》らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。
 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然《もくねん》と口を噤《つぐ》んでいました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属《けんぞく》たちが、その方をずたずたに斬《き》ってしまうぞ」
 神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満《みちみ》ちて、それが皆|槍《やり》や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。
 この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒《おこ》ったの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」
 神将はこう喚《わめ》くが早いか、三叉の戟を閃《ひらめ》かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しょに、夢のように消え失せた後だったのです。
 北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向《あおむ》けにそこへ倒れていました。

     五

 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
 この世と地獄との間には、闇穴道《あんけつどう》という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒《すさ》んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯|木《こ》の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿《しんらでん》という額《がく》の懸《かか》った立派な御殿の前へ出ました。
 御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲《ま》いて、階《きざはし》の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍《きもの》に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂《うわさ》に聞いた、閻魔《えんま》大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪《ひざまず》いていました。
「こら、その方は何の為《ため》に、峨眉山の上へ坐っていた?」
 閻魔大王の声は雷《らい》のように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口を利《き》くな」という鉄冠子の戒《いまし》めの言葉です。そこで唯|頭《かしら》を垂れたまま、唖《おし》のように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏《しゃく》を挙げて、顔中の鬚《ひげ》を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思う? 速《すみやか》に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責《かしゃく》に遇《あ》わせてくれるぞ」と、威丈高《いたけだか》に罵《ののし》りました。
 が、杜子春は相変らず唇《くちびる》一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏《かしこま》って、忽《たちま》ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。
 地獄には誰でも知っている通り、剣《つるぎ》の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔《ほのお》の谷や極寒《ごくかん》地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を抛《ほう》りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥《は》がれるやら、鉄の杵《きね》に撞《つ》かれるやら、油の鍋《なべ》に煮られるやら、毒蛇に脳味噌《のうみそ》を吸われるやら、熊鷹《くまたか》に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦《せめく》に遇《あ》わされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言《ひとこと》も口を利きませんでした。
 これにはさすがの鬼どもも、呆《あき》れ返ってしまったのでしょう。もう一度|夜《よる》のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階《きざはし》の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言う気色《けしき》がございません」と、口を揃《そろ》えて言上《ごんじょう》しました。
 閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の父母《ちちはは》は、畜生道《ちくしょうどう》に落ちている筈だから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。
 鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹の獣《けもの》を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩《や》せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
 杜子春はこう嚇《おど》されても、やはり返答をしずにいました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好《い》いと思っているのだな」
 閻魔大王は森羅殿も崩《くず》れる程、凄《すさま》じい声で喚《わめ》きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭《むち》をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練|未釈《みしゃく》なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所|嫌《きら》わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶《もだ》えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程|嘶《いなな》き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか」
 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階《きざはし》の前へ、倒れ伏していたのです。
 杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊《かた》く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆《ほとんど》声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰《おっしゃ》っても、言いたくないことは黙って御出《おい》で」
 それは確《たしか》に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨《うら》む気色《けしき》さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気《けなげ》な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転《まろ》ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸《くび》を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母《っか》さん」と一声を
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