うに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせてゐます。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向《あふむ》けにそこへ倒れてゐました。

       五

 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れてゐましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
 この世と地獄との間には、闇穴道《あんけつだう》といふ道があつて、そこは年中暗い空に、氷のやうな冷たい風がぴゆうぴゆう吹き荒《すさ》んでゐるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯《ただ》木の葉のやうに、空を漂つて行きましたが、やがて森羅殿《しんらでん》といふ額の懸つた立派な御殿の前へ出ました。
 御殿の前にゐた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまはりを取り捲いて、階《きざはし》の前へ引き据ゑました。階の上には一人の王様が、まつ黒な袍《きもの》に金の冠《かんむり》をかぶつて、いかめしくあたりを睨んでゐます。これは兼ねて噂《うはさ》に聞いた、閻魔《えんま》大王に違ひありません。杜子春はどうなることかと思ひながら、恐る恐るそこへ跪《ひざまづ》いてゐました。
「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐つてゐた?」
 閻魔大王の声は雷のやうに、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答へようとしましたが、ふと又思ひ出したのは、「決して口を利くな。」といふ鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、唖《おし》のやうに黙つてゐました。すると閻魔大王は、持つてゐた鉄の笏《しやく》を挙げて、顔中の鬚《ひげ》を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思ふ? 速《すみやか》に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責《かしやく》に遇《あ》はせてくれるぞ。」と、威丈高《ゐたけだか》に罵《ののし》りました。
 が、杜子春は相変らず唇《くちびる》一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言ひつけると、鬼どもは一度に畏《かしこま》つて、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞ひ上りました。
 地獄には誰でも知つてゐる通り、剣《つるぎ》の山や血の池の外にも、焦熱《せうねつ》地獄といふ焔の谷や極寒《ごくかん》地獄といふ氷の海が、真暗な空の下に並んでゐます。鬼どもはさういふ地獄の中へ、代る代る杜子春を抛《はふ》りこみました。ですから杜子春は
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