御嶽《みたけ》へ論文を書きに行くよと云った。どうせ蔵六の事だから僕がよんだってわかるようなものは書くまいと思って、またカントかとか何とかひやかしたら、そんなものじゃないと答えた。それから、じゃデカルトだろう。君はデカルトが船の中で泥棒に遇《あ》った話を知っているかと、自分でも訳のわからない事をえらそうにしゃべったら、そんな事は知らないさと、あべこべに軽蔑された。大方《おおかた》僕が熱に浮かされているとでも思ったのだろう。このあとで僕の写真を見せたら、一体君の顔は三角定規《さんかくじょうぎ》を倒《さかさ》にしたような顔だのに、こう髪の毛を長くしちゃ、いよいよエステティッシュな趣を損うよ。と、入らざる忠告を聞かされた。
蔵六が帰った後《あと》で夕飯《ゆうめし》に粥《かゆ》を食ったが、更にうまくなかった。体中《からだじゅう》がいやにだるくって、本を読んでも欠伸《あくび》ばかり出る。その中《うち》にいつか、うとうと眠ってしまった。
眼がさめて見ると、知らない間《あいだ》に、蚊帳《かや》が釣ってあった。そうして、それにあけて置いた窓から月がさしていた。無論電燈もちゃんと消してある。僕は氷枕の位置を直しながら、蚊帳《かや》ごしに明るい空を見た。そうしたらこの三年ばかり逢った事のない人の事が頭に浮んだ。どこか遠い所へ行っておそらくは幸福にくらしている人の事である。
僕は起きて、戸をしめて電燈をつけて、眠くなるまで枕もとの本を読んだ。
[#地から1字上げ](大正六年)
底本:「芥川龍之介全集8」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年8月29日第1刷発行
1998(平成10)年2月17日第3刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」
1971(昭和46)年3月〜11月刊行
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年7月23日作成
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