くは琴だ二絃琴だと云って、喧嘩していたが、その中《うち》に楽器の音《ね》がぴったりしなくなった。今になって考えて見ると、どうもあれはこっちの議論が、向うの人に聞えたのに相違ない。そう思うと、僕はいいが、赤木は向う同志と云う関係上、もっと恐縮して然るべき筈である。
 帰りに池《いけ》の端《はた》から電車へ乗ったら、左の奥歯が少し痛み出した。舌をやってみると、ぐらぐら動くやつが一本ある。どうも赤木の雄弁に少し祟《たた》られたらしい。

 三十日
 朝起きたら、歯の痛みが昨夜《ゆうべ》よりひどくなった。鏡に向って見ると、左の頬が大分《だいぶ》腫《は》れている。いびつになった顔は、確《たしか》にあまり体裁《ていさい》の好《い》いものじゃない。そこで右の頬をふくらせたら、平均がとれるだろうと思って、そっちへ舌をやって見たが、やっぱり顔は左の方へゆがんでいる。少くとも今日《きょう》一日、こんな顔をしているのかと思ったら、甚《はなはだ》不平な気がして来た。
 ところが飯を食って、本郷の歯医者へ行ったら、いきなり奥歯を一本ぬかれたのには驚いた。聞いて見ると、この歯医者の先生は、いまだかつて歯痛《しつう》の経験がないのだそうである。それでなければ、とてもこんなに顔のゆがんでいる僕をつかまえて辣腕《らつわん》をふるえる筈がない。
 かえりに区役所前の古道具屋で、青磁《せいじ》の香炉《こうろ》を一つ見つけて、いくらだと云ったら、色眼鏡《いろめがね》をかけた亭主《ていしゅ》が開闢《かいびゃく》以来のふくれっ面《つら》をして、こちらは十円と云った。誰がそんなふくれっ面の香炉を買うものか。
 それから広小路《ひろこうじ》で、煙草と桃とを買ってうちへ帰った。歯の痛みは、それでも前とほとんど変りがない。
 午飯《ひるめし》の代りに、アイスクリイムと桃とを食って、二階へ床《とこ》をとらせて、横になった。どうも気分がよくないから、検温器を入れて見ると、熱が八度ばかりある。そこで枕を氷枕《こおりまくら》に換えて、上からもう一つ氷嚢《ひょうのう》をぶら下《さ》げさせた。
 すると二時頃になって、藤岡蔵六《ふじおかぞうろく》が遊びに来た。到底《とうてい》起きる気がしないから、横になったまま、いろいろ話していると、彼が三分《さんぶ》ばかりのびた髭《ひげ》の先をつまみながら、僕は明日《あす》か明後日《あさって》御嶽《みたけ》へ論文を書きに行くよと云った。どうせ蔵六の事だから僕がよんだってわかるようなものは書くまいと思って、またカントかとか何とかひやかしたら、そんなものじゃないと答えた。それから、じゃデカルトだろう。君はデカルトが船の中で泥棒に遇《あ》った話を知っているかと、自分でも訳のわからない事をえらそうにしゃべったら、そんな事は知らないさと、あべこべに軽蔑された。大方《おおかた》僕が熱に浮かされているとでも思ったのだろう。このあとで僕の写真を見せたら、一体君の顔は三角定規《さんかくじょうぎ》を倒《さかさ》にしたような顔だのに、こう髪の毛を長くしちゃ、いよいよエステティッシュな趣を損うよ。と、入らざる忠告を聞かされた。
 蔵六が帰った後《あと》で夕飯《ゆうめし》に粥《かゆ》を食ったが、更にうまくなかった。体中《からだじゅう》がいやにだるくって、本を読んでも欠伸《あくび》ばかり出る。その中《うち》にいつか、うとうと眠ってしまった。
 眼がさめて見ると、知らない間《あいだ》に、蚊帳《かや》が釣ってあった。そうして、それにあけて置いた窓から月がさしていた。無論電燈もちゃんと消してある。僕は氷枕の位置を直しながら、蚊帳《かや》ごしに明るい空を見た。そうしたらこの三年ばかり逢った事のない人の事が頭に浮んだ。どこか遠い所へ行っておそらくは幸福にくらしている人の事である。
 僕は起きて、戸をしめて電燈をつけて、眠くなるまで枕もとの本を読んだ。
[#地から1字上げ](大正六年)



底本:「芥川龍之介全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年8月29日第1刷発行
   1998(平成10)年2月17日第3刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」
   1971(昭和46)年3月〜11月刊行
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年7月23日作成
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