し今まで瞑目《めいもく》していた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言った。僕等は皆悲しい中にも小声でくすくす笑い出した。
 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐っていた。が、なぜかゆうべのように少しも涙は流れなかった。僕は殆《ほとん》ど泣き声を絶たない僕の姉の手前を恥じ、一生懸命に泣く真似《まね》をしていた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じていた。
 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行った。死ぬ前には正気に返ったと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落した。が、やはりふだんのように何とも口は利かなかった。
 僕は納棺《のうかん》を終った後にも時々泣かずにはいられなかった。すると「王子の叔母さん」と云う或遠縁のお婆さんが一人「ほんとうに御感心でございますね」と言った。しかし僕は妙なことに感心する人だと思っただけだった。
 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌《いはい》を持ち、僕はその後ろに香炉を持ち二人とも人力車に乗って行った。僕は時々居睡《いねむ》りをし、はっと思って目を醒《さ》ます拍子に危く香炉を落しそうにする。けれども谷中《やなか》へは中々来ない。可也《かなり》長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしずしずと練っているのである。
 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は帰命院妙乗日進大姉である。僕はその癖僕の実父の命日や戒名を覚えていない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覚えることも誇りの一つだった為であろう。

   二

 僕は一人の姉を持っている。しかしこれは病身ながらも二人の子供の母になっている。僕の「点鬼簿」に加えたいのは勿論《もちろん》この姉のことではない。丁度僕の生まれる前に突然|夭折《ようせつ》した姉のことである。僕等三人の姉弟の中でも一番賢かったと云う姉のことである。
 この姉を初子と云ったのは長女に生まれた為だったであろう。僕の家の仏壇には未だに「初ちゃん」の写真が一枚小さい額縁の中にはいっている。初ちゃんは少しもか弱そうではない。小さい笑窪《えくぼ》のある両頬《りょうほお》なども熟した杏《あんず》のようにまるまるしている。……… 
 僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは何と云っても「初ちゃん」である。「初ちゃん」は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何かへ
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