。
それが、どのくらいつづいたかわからない。が、暫くすると、切り燈台の火が、いつの間にか、少しずつ暗くなり出したのに気がついた。焔《ほのお》の先が青くなって、光がだんだん薄れて来る。と思うと、丁字《ちょうじ》のまわりが煤《すす》のたまったように黒み出して、追々に火の形が糸ほどに細ってしまう。阿闍梨は、気にして二三度燈心をかき立てた。けれども、暗くなる事は、依然として変りがない。
そればかりか、ふと気がつくと、灯《あかり》の暗くなるのに従って、切り燈台の向うの空気が一所《ひとところ》だけ濃くなって、それが次第に、影のような人の形になって来る。阿闍梨は、思わず読経《どきょう》の声を断った。――
「誰じゃ。」
すると、声に応じて、その影からぼやけた返事が伝って来た。
「おゆるされ。これは、五条西の洞院《とういん》のほとりに住む翁《おきな》でござる。」
阿闍梨《あざり》は、身を稍後《ややあと》へすべらせながら眸《ひとみ》を凝《こ》らして、じっとその翁を見た。翁は経机《きょうづくえ》の向うに白の水干《すいかん》の袖を掻き合せて、仔細《しさい》らしく坐っている。朦朧《もうろう》とはしながらも、烏帽子《えぼし》の紐を長くむすび下げた物ごしは満更《まんざら》狐狸《こり》の変化《へんげ》とも思われない。殊に黄色い紙を張った扇を持っているのが、灯《あかり》の暗いにも関らず気高《けだか》くはっきりと眺められた。
「翁《おきな》とは何の翁じゃ。」
「おう、翁とばかりでは御合点《ごがてん》まいるまい。ありようは、五条の道祖神《さえのかみ》でござる。」
「その道祖神が、何としてこれへ見えた。」
「御経を承《うけたま》わり申した嬉しさに、せめて一語《ひとこと》なりとも御礼申そうとて、罷《まか》り出《いで》たのでござる。」
阿闍梨は不審らしく眉をよせた。
「道命《どうみょう》が法華経を読み奉るのは、常の事じゃ。今宵に限った事ではない。」
「されば。」
道祖神《さえのかみ》は、ちょいと語を切って、種々《しょうしょう》たる黄髪《こうはつ》の頭を、懶《ものう》げに傾けながら不相変《あいかわらず》呟くような、かすかな声で、
「清くて読み奉らるる時には、上《かみ》は梵天帝釈《ぼんてんたいしゃく》より下《しも》は恒河沙《こうがしゃ》の諸仏菩薩まで、悉《ことごと》く聴聞《ちょうもん》せらるるものでご
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング