挂《か》かつてゐる。その額の下や軸の前に、或は銅瓶《どうへい》に梅もどきが、或は青磁《せいじ》に菊の花がその時々で投げこんであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。
もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次の間《ま》へ転じなければならぬ。次の間と云つても客間の東側には、唐紙《からかみ》も何もないのだから、実は一つ座敷も同じ事である。唯|此処《ここ》は板敷で、中央に拡げた方一間《はういつけん》あまりの古絨毯《ふるじゆうたん》の外《ほか》には、一枚の畳も敷いてはない。さうして東と北と二方《にはう》の壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでゐる。書物はそれでも詰まり切らないのか、ぢかに下の床《ゆか》の上へ積んである数《かず》も少くない。その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸《ぢく》だの法帖《ほふでふ》だの画集だのが雑然と堆《うづたか》く盛《も》り上つてゐる。だから中央に敷いた古絨毯《ふるじゆうたん》も、四方に並べてある書物のおかげで、派手《はで》なるべき赤い色が僅《わづか》ばかりしか見えてゐない。しかもそのまん中には小さい紫檀《したん》の机があつて、その又机の向うには座蒲団《ざぶとん》が二枚重ねてある。銅印《どういん》が一つ、石印《せきいん》が二《ふた》つ三《み》つ、ペン皿に代へた竹の茶箕《ちやき》、その中の万年筆、それから玉《ぎよく》の文鎮《ぶんちん》を置いた一綴《ひとつづ》りの原稿用紙――机の上にはこの外《ほか》に老眼鏡《らうがんきやう》が載せてある事も珍しくない。その真上《まうへ》には電燈が煌々《くわうくわう》と光を放つてゐる。傍《かたはら》には瀬戸火鉢《せとひばち》の鉄瓶が虫の啼《な》くやうに沸《たぎ》つてゐる。もし夜寒《よさむ》が甚しければ、少し離れた瓦斯煖炉《ガスだんろ》にも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後《うしろ》、二枚重ねた座蒲団の上には、何処《どこ》か獅子《しし》を想はせる、背《せい》の低い半白《はんぱく》の老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐本《たうほん》の詩集を飜《ひるがへ》したりしながら、端然《たんぜん》と独り坐つてゐる。……
漱石山房《そうせきさんばう》の秋の夜《よ》は、かう云ふ蕭條《せうでう》たるものであつた。
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング