は二三日前に鞍馬の獵師がわしにくれた耳木兎《みゝづく》[#底本は「みゝづく」に「耳木兎」と「木兎」の双方をあてている。以下、これに関しては底本どおり記載する。]と云ふ鳥だ。唯、こんなに馴れてゐるのは、澤山あるまい。」
 かう云ひながらあの男は、徐に手をあげて、丁度餌を食べてしまつた耳木兎《みゝづく》の背中の毛を、そつと下から撫で上げました。するとその途端でございます。鳥は急に鋭い聲で、短く一聲啼いたと思ふと、忽ち机の上から飛び上つて、兩脚の爪を張りながら、いきなり弟子の顏へとびかゝりました。もしその時、弟子が袖をかざして、慌てゝ顏を隱さなかつたなら、きつともう疵の一つや二つは負はされて居りましたらう。あつと云ひながら、その袖を振つて、逐ひ拂はうとする所を、耳木兎は蓋にかかつて、嘴を鳴らしながら、又一突き――弟子は師匠の前も忘れて、立つては防ぎ、坐つては逐ひ、思はず狹い部屋の中を、あちらこちらと逃げ惑ひました。怪鳥《けてう》も元よりそれにつれて、高く低く翔りながら、隙さへあれば驀地《まつしぐら》に眼を目がけて飛んで來ます。その度にばさ/\と、凄じく翼を鳴すのが、落葉の匂だか、瀧の水|沫《しぶき》とも或は又猿酒の饐《す》ゑたいきれだか[#「いきれだか」は底本では「いきれがだ」]何やら怪しげなものゝけはひを誘つて、氣味の惡さと云つたらございません。さう云へばその弟子も、うす暗い油火の光さへ朧げな月明りかと思はれて、師匠の部屋がその儘遠い山奧の、妖氣に閉された谷のやうな、心細い氣がしたとか申したさうでございます。
 しかし弟子が恐しかつたのは、何も耳木兎に襲はれると云ふ、その事ばかりではございません。いや、それよりも一層身の毛がよだつたのは、師匠の良秀がその騷ぎを冷然と眺めながら、徐に紙を展べ筆を舐つて、女のやうな少年が異形な鳥に虐《さいな》まれる、物凄い有樣を寫してゐた事でございます。弟子は一目それを見ますと、忽ち云ひやうのない恐ろしさに脅《おびや》かされて、實際一時は師匠の爲に、殺されるのではないかとさへ、思つたと申して居りました。

       十一

 實際師匠に殺されると云ふ事も、全くないとは申されません。現にその晩わざわざ弟子を呼びよせたのでさへ、實は木兎を唆《けし》かけて、弟子の逃げまはる有樣を寫さうと云ふ魂膽らしかつたのでございます。でございますから、弟子は、師匠の容子を一目見るが早いか、思はず兩袖に頭を隱しながら、自分にも何と云つたかわからないやうな悲鳴をあげて、その儘部屋の隅の遣戸《やりど》の裾へ、居すくまつてしまひました。とその拍子に、良秀も何やら慌てたやうな聲をあげて、立上つた氣色でございましたが、忽ち木兎の羽音が一層前よりもはげしくなつて、物の倒れる音や破れる音が、けたゝましく聞えるではございませんか。これには弟子も二度、度を失つて、思はず隱してゐた頭を上げて見ますと部屋の中は何時かまつ暗になつてゐて、師匠の弟子たちを呼び立てる聲が、その中で苛立しさうにして居ります。
 やがて弟子の一人が、遠くの方で返事をして、それから灯をかざしながら、急いでやつて參りましたが、その煤臭《すゝくさ》い明《あか》りで眺めますと、結燈臺《ゆひとうだい》が倒れたので、床も疊も一面に油だらけになつた所へ、さつきの耳木兎が片方の翼ばかり苦しさうにはためかしながら、轉げまはつてゐるのでございます。良秀は机の向うで半ば體を起した儘、流石に呆氣《あつけ》にとられたやうな顏をして、何やら人にはわからない事を、ぶつ/\呟いて居りました。――それも無理ではございません。あの木兎の體には、まつ黒な蛇《へび》が一匹、頸から片方の翼へかけて、きりきりと捲きついてゐるのでございます。大方これは弟子が居すくまる拍子に、そこにあつた壺をひつくり返して、その中の蛇が這ひ出したのを、木兎がなまじひに掴みかゝらうとしたばかりに、とう/\かう云ふ大騷ぎが始まつたのでございませう。二人の弟子は互に眼と眼とを見合せて、暫くは唯、この不思議な光景をぼんやり眺めて居りましたが、やがて師匠に默禮をして、こそ/\部屋へ引き下つてしまひました。蛇と木兎とがその後どうなつたか、それは誰も知つてゐるものはございません。――
 かう云ふ類《たぐひ》の事は、その外まだ、幾つとなくございました。前には申し落しましたが、地獄變の屏風を描けと云ふ御沙汰があつたのは、秋の初でございますから、それ以來冬の末まで、良秀の弟子たちは、絶えず師匠の怪しげな振舞に脅《おびや》かされてゐた譯でございます。が、その冬の末に良秀は何か屏風の畫で、自由にならない事が出來たのでございませう、それまでよりは、一層容子も陰氣になり、物云ひも目に見えて、荒々しくなつて參りました。と同時に又屏風の畫も、下畫が八分通り出來上つた儘、更に捗《はか》どる模樣はございません。いや、どうかすると今までに描いた所さへ、塗り消してもしまひ兼ねない氣色なのでございます。
 その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。又誰もわからうとしたものもございますまい。前のいろ/\な出來事に懲りてゐる弟子たちは、まるで虎狼と一つ檻《をり》にでもゐるやうな心もちで、その後師匠の身のまはりへは、成る可く近づかない算段をして居りましたから。

       十二

 從つてその間の事に就いては、別に取り立てゝ申し上げる程の御話もございません。もし強ひて申上げると致しましたら、それはあの強情な老爺《おやじ》が、何故《なぜ》か妙に涙脆くなつて、人のゐない所では時々獨りで泣いてゐたと云ふ御話位なものでございませう。殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ參りました時なぞは廊下に立つてぼんやり春の近い空を眺めてゐる師匠の眼が、涙で一ぱいになつてゐたさうでございます。弟子はそれを見ますと、反つてこちらが恥しいやうな氣がしたので、默つてこそ/\引き返したと申す事でございますが、五|趣生死《ごしゆしやうじ》の圖を描く爲には、道ばたの死骸さへ寫したと云ふ、傲慢なあの男が屏風の畫が思ふやうに描けない位の事で、子供らしく泣き出すなどと申すのは隨分異なものでございませんか。
 所が一方良秀がこのやうに、まるで正氣の人間とは思はれない程夢中になつて、屏風の繪を描いて居ります中に、又一方ではあの娘が、何故かだん/\氣鬱になつて、私どもにさへ涙を堪へてゐる容子が、眼に立つて參りました。[#「。」は底本では「、」]それが元來|愁顏《うれひがほ》の、色の白い、つゝましやかな女だけに、かうなると何だか睫毛《まつげ》が重くなつて、眼のまはりに隈がかゝつたやうな、餘計寂しい氣が致すのでございます。初はやれ父思ひのせゐだの、やれ戀煩ひをしてゐるからだの、いろ/\臆測を致したものでございますが、中頃から、なにあれは大殿樣が御意に從はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて、夫からは誰も忘れた樣に、ぱつたりとあの娘の噂をしなくなつて了ひました。
 丁度その頃の事でございませう[#「ませう」は底本では「まませう」]。或夜、更《かう》が闌《た》けてから、私が獨り御廊下を通りかゝりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んで參りまして、私の袴の裾を頻りにひつぱるのでございます。確、もう梅の匂でも致しさうなうすい月の光のさしてゐる、暖い夜でございましたが、其明りですかして見ますと、猿はまつ白な齒をむき出しながら、鼻の先へ皺をよせて、氣が違はないばかりにけたゝましく啼き立てゝゐるではございませんか。私は氣味の惡いのが三分と、新しい袴をひつぱられる腹立たしさが七分とで、最初は猿を蹴放して、その儘通りすぎようかとも思ひましたが、又思ひ返して見ますと、前にこの猿を折檻して、若殿樣の御不興を受けた侍《さむらひ》の例もございます。それに猿の振舞が、どうも唯事とは思はれません。そこでとう/\私も思ひ切つて、そのひつぱる方へ五六間歩くともなく歩いて參りました。
 すると御廊下が一曲り曲つて、夜目にもうす白い御池の水が枝ぶりのやさしい松の向うにひろ/″\と見渡せる、丁度そこ迄參つた時の事でございます。どこか近くの部屋の中で人の爭つてゐるらしいけはひが、慌《あわたゞ》しく、又妙にひつそりと私の耳を脅しました。あたりはどこも森《しん》と靜まり返つて、月明りとも靄ともつかないものゝ中で、魚の跳る音がする外は、話し聲一つ聞えません。そこへこの物音でございますから。私は思はず立止つて、もし狼籍者でゞもあつたなら、目にもの見せてくれようと、そつとその遣戸《やりど》の外へ、息をひそめながら身をよせました。

       十三

 所が猿は私のやり方がまだるかつたのでございませう。良秀はさもさももどかしさうに、二三度私の足のまはりを駈けまはつたと思ひますと、まるで咽を絞められたやうな聲で啼きながら、いきなり私の肩のあたりへ一足飛に飛び上りました。私は思はず頸を反らせて、その爪にかけられまいとする、猿は又|水干《すゐかん》の袖にかじりついて、私の體《からだ》から辷り落ちまいとする、――その拍子に、私はわれ知らず二足三足よろめいて、その遣り戸へ後ざまに、したゝか私の體を打ちつけました。かうなつてはもう一刻も躊躇してゐる場合ではございません。私は矢庭に遣り戸を開け放して、月明りのとどかない奧の方へ跳りこまうと致しました。が、その時私の眼を遮つたものは――いや、それよりももつと私は、同時にその部屋の中から、彈かれたやうに駈け出さうとした女の方に驚かされました。女は出合頭に危く私に衝き當らうとして、その儘外へ轉び出ましたが、何故《なぜ》かそこへ膝をついて、息を切らしながら私の顏を、何か恐ろしいものでも見るやうに、戰《をのゝ》き/\見上げてゐるのでございます。
 それが良秀の娘だつたことは、何もわざ/\申し上げるまでもございますまい。が、その晩のあの女は、まるで人間が違つたやうに、生々《いき/\》と私の眼に映りました。眼は大きくかゞやいて居ります。頬も赤く燃えて居りましたらう。そこへしどけなく亂れた袴や袿《うちぎ》が、何時もの幼さとは打つて變つた艷《なまめか》しささへも添へてをります。これが實際あの弱々しい、何事にも控へ目勝な良秀の娘でございませうか。――私は遣り戸に身を支へて、この月明りの中にゐる美しい娘の姿を眺めながら、慌しく遠のいて行くもう一人の足音を、指させるものゝやうに指さして、誰ですと靜に眼で尋ねました。
 すると娘は脣を噛みながら、默つて首をふりました。その容子が如何にも亦|口惜《くや》しさうなのでございます。
 そこで私は身をかゞめながら、娘の耳へ口をつけるやうにして、今度は「誰です」と小聲で尋ねました。が、娘はやはり首を振つたばかりで、何とも返事を致しません。いや、それと同時に長い睫毛《まつげ》の先へ、涙を一ぱいためながら、前よりも緊く脣を噛みしめてゐるのでございます。
 性得愚《しやとくおろか》な私には、分りすぎてゐる程分つてゐる事の外は、生憎何一つ呑みこめません。でございますから、私は言のかけやうも知らないで、暫くは唯、娘の胸の動悸に耳を澄ませるやうな心もちで、ぢつとそこに立ちすくんで居りました。尤もこれは一つには、何故《なぜ》かこの上問ひ訊《たゞ》すのが惡いやうな、氣咎めが致したからでもございます。――
 それがどの位續いたか、わかりません。が、やがて明け放した遣り戸を閉しながら少しは上氣の褪めたらしい娘の方を見返つて、「もう曹司《そうじ》へ御歸りなさい」と出來る丈やさしく申しました。さうして私も自分ながら、何か見てはならないものを見たやうな、不安な心もちに脅されて、誰にともなく恥しい思ひをしながら、そつと元來た方へ歩き出しました。所が十歩と歩かない中に、誰か又私の袴の裾を、後から恐る/\、引き止めるではございませんか。私は驚いて、振り向きました。あなた方はそれが何だつたと思召します?
 見るとそれは私の足もとにあの猿の良秀が、人間のやうに兩手をついて、黄金の鈴を鳴しながら
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