だとか申しまして、猿秀と云ふ諢名《あだな》までつけた事がございました。
いや猿秀と申せば、かやうな御話もございます。その頃大殿樣の御邸には、十五になる良秀の一人娘が、小女房《こねうぼう》に上つて居りましたが、これは又生みの親には似もつかない、愛嬌のある娘《こ》でございました。その上早く女親に別れましたせゐか、思ひやりの深い、年よりはませた、悧巧な生れつきで、年の若いのにも似ず、何かとよく氣がつくものでございますから、御臺樣を始め外の女房たちにも、可愛がられて居たやうでございます。
すると何かの折に、丹波の國から人馴れた猿を一匹、獻上したものがございまして、それに丁度|惡戯盛《いたづらさか》りの若殿樣が、良秀と云ふ名を御つけになりました。唯でさへその猿の容子が可笑《をか》しい所へ、かやうな名がついたのでございますから、御邸中誰一人笑はないものはございません。それも笑ふばかりならよろしうございますが、面白半分に皆のものが、やれ御庭の松に上つたの、やれ曹司の疊をよごしたのと、その度毎に、良秀々々と呼び立てゝは、兎に角いぢめたがるのでございます。
所が或日の事、前に申しました良秀の娘が、御文を結んだ寒紅梅の枝を持つて、長い御廊下を通りかゝりますと、遠くの遣戸《やりど》の向うから、例の小猿の良秀が、大方足でも挫いたのでございませう、何時ものやうに柱へ驅け上る元氣もなく、跛《びつこ》を引き/\、一散に、逃げて參るのでございます。しかもその後からは楚《すばえ》をふり上げた若殿樣が「柑子盜人《かうじぬすびと》め、待て。待て。」と仰有りながら、追ひかけていらつしやるのではごさいませんか。良秀の娘はこれを見ますと、ちよいとの間ためらつたやうでございますが、丁度その時逃げて來た猿が、袴の裾にすがりながら、哀れな聲を出して蹄き立てました――と、急に可哀さうだと思ふ心が、抑へ切れなくなつたのでございませう。片手に梅の枝をかざした儘片手に紫匂《むらさきにほひ》の袿《うちぎ》の袖を輕さうにはらりと開きますと、やさしくその猿を抱き上げて、若殿樣の御前に小腰をかゞめながら「恐れながら畜生でございます。どうか御勘辨遊ばしまし。」と、涼しい聲で申し上げました。
が、若殿樣の方は、氣負《きお》つて驅けてお出でになつた所でございますから、むづかしい御顏をなすつて、二三度御み足を御踏鳴《おふみなら》しになりながら、
「何でかばふ。その猿は柑子盜人《かうじぬすびと》だぞ。」
「畜生でございますから、……」
娘はもう一度かう繰返しましたがやがて寂しさうにほほ笑みますと、
「それに良秀と申しますと、父が御折檻を受けますやうで、どうも唯見ては居られませぬ。」と、思ひ切つたやうに申すのでございます。これには流石の若殿樣も、我《が》を御折りになつたのでございませう。
「さうか。父親の命乞《いのちごひ》なら、枉げて赦してとらすとしよう。」
不承無承にかう仰有ると、楚《すばえ》をそこへ御捨てになつて、元いらしつた遣戸の方へ、その儘御歸りになつてしまひました。
三
良秀の娘とこの小猿との仲がよくなつたのは、それからの事でございます。娘は御姫樣から頂戴した黄金の鈴を、美しい眞紅《しんく》の紐に下げて、それを猿の頭へ懸けてやりますし、猿は又どんな事がございましても、滅多に娘の身のまはりを離れません。或時娘の風邪《かぜ》の心地で、床に就きました時なども、小猿はちやんとその枕もとに坐りこんで、氣のせゐか心細さうな顏をしながら、頻に爪を噛んで居りました。
かうなると又妙なもので、誰も今までのやうにこの小猿を、いぢめるものはございません。いや、反つてだん/\可愛がり始めて、しまひには若殿樣でさへ、時々柿や栗を投げて御やりになつたばかりか、侍の誰やらがこの猿を足蹴にした時なぞは、大層御立腹にもなつたさうでございます。その後大殿樣がわざ/\良秀の娘に猿を抱いて、御前へ出るやうと御沙汰になつたのも、この若殿樣の御腹立になつた話を、御聞きになつてからだとか申しました。その序に自然と娘の猿を可愛がる所由《いはれ》も御耳にはいつたのでございませう。
「孝行な奴ぢや。褒めてとらすぞ。」
かやうな御意で、娘はその時、紅《くれなゐ》の袙《あこめ》を御褒美に頂きました。所がこの袙を又見やう見眞似に、猿が恭しく押頂きましたので、大殿樣の御機嫌は、一入よろしかつたさうでございます。でございますから、大殿樣が良秀の娘御を贔屓になつたのは、全くこの猿を可愛がつた[#「可愛がつた」は底本では「可愛かつた」]、孝行恩愛の情を御賞美なすつたので、決して世間で兎や角申しますやうに、色を御好みになつた譯ではございません。尤もかやうな噂の立ちました起りも、無理のない所がございますが、それは又後になつて、
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