の位でございますから、いざ畫筆を取るとなると、その繪を描き上げると云ふより外は、何も彼も忘れてしまふのでございませう。晝も夜も一間に閉ぢこもつたきりで、滅多に日の目も見た事はございません。――殊に地獄變の屏風を描いた時には、かう云ふ夢中になり方が、甚しかつたやうでございます。
と申しますのは何もあの男が、晝も蔀《しとみ》も下《おろ》した部屋の中で、結燈臺《ゆひとうだい》の火の下に、祕密の繪の具を合せたり、或は弟子たちを、水干やら狩衣やら、さま/″\に着飾らせて、その姿を、一人づゝ丁寧に寫したり、――さう云ふ事ではございません。それ位の變つた事なら、別にあの地獄變の屏風を描《か》かなくとも、仕事にかゝつてゐる時とさへ申しますと、何時でもやり兼ねない男なのでございます。いや、現に龍蓋寺の五|趣生死《しゆしやうじ》[#「五趣生死」は底本では「五種生死」]の圖を描きました時などは、當り前の人間なら、わざと眼を外《そ》らせて行くあの往來の屍骸の前へ、悠々と腰を下ろして、半ば腐れかかつた顏や手足を、髮の毛一すぢも違へずに、寫して參つた事がございました。では、その甚だしい夢中になり方とは、一體どう云ふ事を申すのか、流石に御わかりにならない方もいらつしやいませう。それは唯今詳しい事は申し上げてゐる暇もございませんが、主な話を御耳に入れますと、大體先かやうな次第なのでございます。
良秀の弟子の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)或日繪の具を溶いて居りますと、急に師匠が參りまして、
「己は少し午睡《ひるね》をしようと思ふ。がどうもこの頃は夢見が惡い。」とかう申すのでございます。別にこれは珍しい事でも何でもございませんから、弟子は手を休めずに、唯、
「さやうでございますか。」と一通りの挨拶を致しました。所が、良秀は、何時になく寂しさうな顏をして、
「就いては、己が午睡《ひるね》をしてゐる間中、枕もとに坐つてゐて貰ひたいのだが。」と、遠慮がましく頼むではございませんか。弟子は何時になく、師匠が夢なぞを氣にするのは、不思議だと思ひましたが、それも別に造作のない事でございますから、
「よろしうございます。」と申しますと、師匠はまだ心配さうに、
「では直に奧へ來てくれ。尤も後で外の弟子が來ても、己の睡つてゐる所へは入れないやうに。」と、ためらひながら云ひつけました。奧と申しますのは、あの男が畫を描きます部屋で、その日も夜のやうに戸を立て切つた中に、ぼんやりと灯をともしながら、まだ燒筆《やきふで》で圖取りだけしか出來てゐない屏風が、ぐるりと立て廻してあつたさうでございます。さてこゝへ參りますと、良秀は肘を枕にして、まるで疲れ切つた人間のやうに、すや/\、睡入つてしまひましたが、ものゝ半時《はんとき》とたちません中に、枕もとに居ります弟子の耳には、何とも彼とも申しやうのない、氣味の惡い聲がはいり始めました。
八
それが始めは唯、聲でごさいましたが、暫くしますと、次第に切れ/″\な語《ことば》になつて、云はゞ溺れかゝつた人間が水の中で呻《うな》るやうに、かやうな事を申すのでございます。
「なに、己《おれ》に來いと云ふのだな。――どこへ――どこへ來いと? 奈落へ來い。炎熱地獄へ來い。――誰だ。さう云ふ貴樣は。――貴樣は誰だ――誰だと思つたら」
弟子は思はず繪の具を溶く手をやめて、恐る/\師匠の顏を、覗くやうにして透して見ますと、皺だらけな顏が白くなつた上に大粒《おほつぶ》な汗を滲《にじ》ませながら、脣の干《かわ》いた、齒の疎《まばら》な口を喘《あへ》ぐやうに大きく開けて居ります。さうしてその口の中で、何か糸でもつけて引張つてゐるかと疑ふ程、目まぐるしく動くものがあると思ひますと、それがあの男の舌だつたと申すではございませんか。切れ切れな語は元より、その舌から出て來るのでございます。
「誰だと思つたら――うん、貴樣だな。己も貴樣だらうと思つてゐた。なに、迎へに來たと? だから來い。奈落へ來い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」
その時、弟子の眼には、朦朧とした異形《いぎやう》の影《かげ》が、屏風の面《おもて》をかすめてむらむらと下りて來るやうに見えた程、氣味の惡い心もちが致したさうでございます。勿論弟子はすぐに良秀に手をかけて、力のあらん限り搖り起しましたが、師匠は猶|夢現《ゆめうつゝ》に獨り語を云ひつゞけて、容易に眼のさめる氣色はございません。そこで弟子は思ひ切つて、側にあつた筆洗の水を、ざぶりとあの男の顏へ浴びせかけました。
「待つてゐるから、この車へ乘つて來い――この車へ乘つて、奈落へ來い――」と云ふ語がそれと同時に、喉をしめられるやうな呻き聲に變つたと思ひますと、やつと良秀は眼を開いて、針で刺されたよりも慌し
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