上つた儘、更に捗《はか》どる模樣はございません。いや、どうかすると今までに描いた所さへ、塗り消してもしまひ兼ねない氣色なのでございます。
その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。又誰もわからうとしたものもございますまい。前のいろ/\な出來事に懲りてゐる弟子たちは、まるで虎狼と一つ檻《をり》にでもゐるやうな心もちで、その後師匠の身のまはりへは、成る可く近づかない算段をして居りましたから。
十二
從つてその間の事に就いては、別に取り立てゝ申し上げる程の御話もございません。もし強ひて申上げると致しましたら、それはあの強情な老爺《おやじ》が、何故《なぜ》か妙に涙脆くなつて、人のゐない所では時々獨りで泣いてゐたと云ふ御話位なものでございませう。殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ參りました時なぞは廊下に立つてぼんやり春の近い空を眺めてゐる師匠の眼が、涙で一ぱいになつてゐたさうでございます。弟子はそれを見ますと、反つてこちらが恥しいやうな氣がしたので、默つてこそ/\引き返したと申す事でございますが、五|趣生死《ごしゆしやうじ》の圖を描く爲には、道ばたの死骸さへ寫したと云ふ、傲慢なあの男が屏風の畫が思ふやうに描けない位の事で、子供らしく泣き出すなどと申すのは隨分異なものでございませんか。
所が一方良秀がこのやうに、まるで正氣の人間とは思はれない程夢中になつて、屏風の繪を描いて居ります中に、又一方ではあの娘が、何故かだん/\氣鬱になつて、私どもにさへ涙を堪へてゐる容子が、眼に立つて參りました。[#「。」は底本では「、」]それが元來|愁顏《うれひがほ》の、色の白い、つゝましやかな女だけに、かうなると何だか睫毛《まつげ》が重くなつて、眼のまはりに隈がかゝつたやうな、餘計寂しい氣が致すのでございます。初はやれ父思ひのせゐだの、やれ戀煩ひをしてゐるからだの、いろ/\臆測を致したものでございますが、中頃から、なにあれは大殿樣が御意に從はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて、夫からは誰も忘れた樣に、ぱつたりとあの娘の噂をしなくなつて了ひました。
丁度その頃の事でございませう[#「ませう」は底本では「まませう」]。或夜、更《かう》が闌《た》けてから、私が獨り御廊下を通りかゝりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んで參りま
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