恰好は、まるで酒甕を轉《ころ》がしたやうだとでも申しませうか。何しろ手も足も慘たらしく折り曲げられて居りますから、動くのは唯首ばかりでございます。そこへ肥《ふと》つた體中《からだぢう》の血が、鎖に循環《めぐり》を止められたので、顏と云はず胴と云はず、一面に皮膚の色が赤み走つて參るではございませんか。が、良秀にはそれも格別氣にならないと見えまして、その酒甕のやうな體のまはりを、あちこちと廻つて眺めながら、同じやうな寫眞の圖を何枚となく描いて居ります。その間、縛られてゐる弟子の身が、どの位苦しかつたかと云ふ事は、何もわざ/\取立てゝ申し上げるまでもございますまい。
が、もし何事も起らなかつたと致しましたら、この苦しみは恐らくまだその上にも、つゞけられた事でございませう。幸(と申しますより、或は不幸にと申した方がよろしいかも知れません。)暫く致しますと、部屋の隅にある壺の蔭から、まるで黒い油のやうなものが、一すぢ細くうねりながら、流れ出して參りました。それが始の中は餘程粘り氣のあるものゝやうに、ゆつくり動いて居りましたが、だん/\滑らかに辷り始めて、やがてちら/\光りながら、鼻の先まで流れ着いたのを眺めますと、弟子は思はず、息を引いて、
「蛇が――蛇が。」と喚《わめ》きました。その時は全く體中の血が一時に凍るかと思つたと申しますが、それも無理はございません。蛇は實際もう少しで、鎖の食ひこんでゐる、頸の肉へその冷い舌の先を觸れようとしてゐたのでございます。この思ひもよらない出來事には、いくら横道な良秀でも、ぎよつと致したのでございませう。慌てて畫筆を投げ棄てながら、咄嗟に身をかがめたと思ふと、素早く蛇の尾をつかまへて、ぶらりと逆に吊り下げました。蛇は吊り下げられながらも、頭を上げて、きり/\と自分の體へ卷きつきましたが、どうしてもあの男の手の所まではとどきません。
「おのれ故に、あつたら一|筆《ふで》を仕損《しぞん》じたぞ。」
良秀は忌々しさうにかう呟くと、蛇はその儘部屋の隅の壺の中へ抛りこんで、それからさも不承無承《ふしようぶしよう》に、弟子の體へかゝつてゐる鎖を解いてくれました。それも唯解いてくれたと云ふ丈で、肝腎の弟子の方へは、優《やさ》しい言葉一つかけてはやりません。大方弟子が蛇に噛まれるよりも、寫眞の一筆を誤つたのが、業腹《ごふはら》だつたのでございませう。―
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