嫌は、一入《ひとしほ》よろしかつたさうでございます。でございますから、大殿様が良秀の娘を御|贔屓《ひいき》になつたのは、全くこの猿を可愛がつた、孝行恩愛の情を御賞美なすつたので、決して世間で兎や角申しますやうに、色を御好みになつた訳ではございません。尤もかやうな噂の立ちました起りも、無理のない所がございますが、それは又後になつて、ゆつくり御話し致しませう。こゝでは唯大殿様が、如何に美しいにした所で、絵師|風情《ふぜい》の娘などに、想ひを御懸けになる方ではないと云ふ事を、申し上げて置けば、よろしうございます。
さて良秀の娘は、面目を施して御前を下りましたが、元より悧巧な女でございますから、はしたない外の女房たちの妬《ねたみ》を受けるやうな事もございません。反つてそれ以来、猿と一しよに何かといとしがられまして、取分け御姫様の御側からは御離れ申した事がないと云つてもよろしい位、物見車の御供にもついぞ欠けた事はございませんでした。
が、娘の事は一先づ措《お》きまして、これから又親の良秀の事を申し上げませう。成程《なるほど》猿の方は、かやうに間もなく、皆のものに可愛がられるやうになりましたが、肝腎《かんじん》の良秀はやはり誰にでも嫌はれて、相不変《あひかはらず》陰へまはつては、猿秀|呼《よばは》りをされて居りました。しかもそれが又、御邸の中ばかりではございません。現に横川《よがは》の僧都様も、良秀と申しますと、魔障にでも御遇ひになつたやうに、顔の色を変へて、御憎み遊ばしました。(尤もこれは良秀が僧都様の御行状を戯画《ざれゑ》に描いたからだなどと申しますが、何分|下《しも》ざまの噂でございますから、確に左様とは申されますまい。)兎に角、あの男の不評判は、どちらの方に伺ひましても、さう云ふ調子ばかりでございます。もし悪く云はないものがあつたと致しますと、それは二三人の絵師仲間か、或は又、あの男の絵を知つてゐるだけで、あの男の人間は知らないものばかりでございませう。
しかし実際、良秀には、見た所が卑しかつたばかりでなく、もつと人に嫌がられる悪い癖があつたのでございますから、それも全く自業自得とでもなすより外に、致し方はございません。
四
その癖と申しますのは、吝嗇《りんしよく》で、慳貪《けんどん》で、恥知らずで、怠けもので、強慾で――いやその中でも取分け甚しいのは、横柄で高慢で、何時も本朝第一の絵師と申す事を、鼻の先へぶら下げてゐる事でございませう。それも画道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間の習慣《ならはし》とか慣例《しきたり》とか申すやうなものまで、すべて莫迦《ばか》に致さずには置かないのでございます。これは永年良秀の弟子になつてゐた男の話でございますが、或日さる方の御邸で名高い檜垣《ひがき》の巫女《みこ》に御霊《ごりやう》が憑《つ》いて、恐しい御託宣があつた時も、あの男は空耳《そらみゝ》を走らせながら、有合せた筆と墨とで、その巫女の物凄い顔を、丁寧に写して居つたとか申しました。大方御霊の御祟《おたゝ》りも、あの男の眼から見ましたなら、子供欺し位にしか思はれないのでございませう。
さやうな男でございますから、吉祥天を描く時は、卑しい傀儡《くぐつ》の顔を写しましたり、不動明王を描く時は、無頼《ぶらい》の放免《はうめん》の姿を像《かたど》りましたり、いろ/\の勿体《もつたい》ない真似を致しましたが、それでも当人を詰《なじ》りますと「良秀の描《か》いた神仏が、その良秀に冥罰《みやうばつ》を当てられるとは、異な事を聞くものぢや」と空嘯《そらうそぶ》いてゐるではございませんか。これには流石の弟子たちも呆れ返つて、中には未来の恐ろしさに、匆々暇をとつたものも、少くなかつたやうに見うけました。――先づ一口に申しましたなら、慢業重畳《まんごふちようでふ》とでも名づけませうか。兎に角当時|天《あめ》が下《した》で、自分程の偉い人間はないと思つてゐた男でございます。
従つて良秀がどの位画道でも、高く止つて居りましたかは、申し上げるまでもございますまい。尤もその絵でさへ、あの男のは筆使ひでも彩色でも、まるで外の絵師とは違つて居りましたから、仲の悪い絵師仲間では、山師だなどと申す評判も、大分あつたやうでございます。その連中の申しますには、川成《かはなり》とか金岡《かなをか》とか、その外昔の名匠の筆になつた物と申しますと、やれ板戸の梅の花が、月の夜毎に匂つたの、やれ屏風の大宮人《おほみやびと》が、笛を吹く音さへ聞えたのと、優美な噂が立つてゐるものでございますが、良秀の絵になりますと、何時でも必ず気味の悪い、妙な評判だけしか伝はりません。譬《たと》へばあの男が龍蓋寺《りゆうがいじ》の門へ描きました
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