は持っていない。蘭はどこでも石の間に特に一、二|茎《けい》植えたものだった。
九 夢中遊行
僕はそのころも今のように体《からだ》の弱い子供だった。ことに便秘《べんぴ》しさえすれば、必ずひきつける子供だった。僕の記憶に残っているのは僕が最後にひきつけた九歳の時のことである。僕は熱もあったから、床の中に横たわったまま、伯母《おば》の髪を結うのを眺《なが》めていた。そのうちにいつかひきつけたとみえ、寂しい海辺《うみべ》を歩いていた。そのまた海辺には人間よりも化け物に近い女が一人、腰巻き一つになったなり、身投げをするために合掌していた。それは「妙々車《みょうみょうぐるま》」という草双紙《くさぞうし》の中の插画《さしえ》だったらしい。この夢うつつの中の景色だけはいまだにはっきりと覚えている。正気になった時のことは覚えていない。
一〇 「つうや」
僕がいちばん親しんだのは「てつ」ののちにいた「つる」である。僕の家《うち》はそのころから経済状態が悪くなったとみえ、女中もこの「つる」一人ぎりだった。僕は「つる」のことを「つうや」と呼んだ。「つうや」はあたりまえの女よりもロマンティック趣味に富んでいたのであろう。僕の母の話によれば、法界節《ほうかいぶし》が二、三人|編《あ》み笠《がさ》をかぶって通るのを見ても「敵討《かたきう》ちでしょうか?」と尋ねたそうである。
一一 郵便箱
僕の家《うち》の門の側《そば》には郵便箱が一つとりつけてあった。母や伯母《おば》は日の暮れになると、かわるがわる門の側へ行き、この小さい郵便箱の口から往来の人通りを眺《なが》めたものである。封建時代らしい女の気もちは明治三十二、三年ころにもまだかすかに残っていたであろう。僕はまたこういう時に「さあ、もう雀色時《すずめいろどき》になったから」と母の言ったのを覚えている。雀色時という言葉はそのころの僕にも好きな言葉だった。
一二 灸
僕は何かいたずらをすると、必ず伯母《おば》につかまっては足の小指に灸《きゅう》をすえられた。僕に最も怖《おそ》ろしかったのは灸の熱さそれ自身よりも灸をすえられるということである。僕は手足をばたばたさせながら「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」と怒鳴ったりした。これはもちろん火がつくところから自然と連想《れんそう》を生じたのであろう。
一三 剥製の雉
僕の家《うち》へ来る人々の中に「お市さん」という人があった。これは代地《だいち》かどこかにいた柳派の「五《ご》りん」のお上《かみ》さんだった。僕はこの「お市さん」にいろいろの画本《えほん》や玩具《おもちゃ》などを貰《もら》った。その中でも僕を喜ばせたのは大きい剥製《はくせい》の雉《きじ》である。
僕は小学校を卒業する時、その尾羽根の切れかかった雉を寄附していったように覚えている。が、それは確かではない。ただいまだにおかしいのは雉の剥製を貰った時、父が僕に言った言葉である。
「昔、うちの隣にいた××××(この名前は覚えていない)という人はちょうど元日のしらしら明けの空を白い鳳凰《ほうおう》がたった一羽、中洲《なかず》の方へ飛んで行くのを見たことがあると言っていたよ。もっともでたらめを言う人だったがね」
一四 幽霊
僕は小学校へはいっていたころ、どこの長唄《ながうた》の女師匠は亭主の怨霊《おんりょう》にとりつかれているとか、ここの仕事師のお婆《ばあ》さんは嫁の幽霊に責められているとか、いろいろの怪談を聞かせられた。それをまた僕に聞かせたのは僕の祖父の代に女中をしていた「おてつさん」という婆さんである。僕はそんな話のためか、夢とも現《うつつ》ともつかぬ境にいろいろの幽霊に襲われがちだった。しかもそれらの幽霊はたいていは「おてつさん」の顔をしていた。
一五 馬車
僕が小学校へはいらぬ前、小さい馬車を驢馬《ろば》に牽《ひ》かせ、そのまた馬車に子供を乗せて、町内をまわる爺《じい》さんがあった。僕はこの小さい馬車に乗って、お竹倉や何かを通りたかった。しかし僕の守《も》りをした「つうや」はなぜかそれを許さなかった。あるいは僕だけ馬車へ乗せるのを危険にでも思ったためかもしれない。けれども青い幌《ほろ》を張った、玩具《おもちゃ》よりもわずかに大きい馬車が小刻みにことこと歩いているのは幼目にもハイカラに見えたものである。
一六 水屋
そのころはまた本所《ほんじょ》も井戸の水を使っていた。が、特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋の爺《じい》さんが水桶《みずおけ》の水を水甕《みずがめ》の中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋さん」も夢現《ゆめ
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