は前後の分別を失ったとみえ、枕《まくら》もとの行灯《あんどん》をぶら下げたなり、茶の間から座敷を走りまわった。僕はその時座敷の畳に油じみのできたのを覚えている。それからまた夜中の庭に雪の積もっていたのを覚えている。

     五 猫の魂

「てつ」は源《げん》さんへ縁づいたのちも時々僕の家《うち》へ遊びに来た。僕はそのころ「てつ」の話した、こういう怪談を覚えている。――ある日の午後、「てつ」は長火鉢《ながひばち》に頬杖《ほほづえ》をつき、半睡半醒《はんすいはんせい》の境にさまよっていた。すると小さい火の玉が一つ、「てつ」の顔のまわりを飛びめぐり始めた。「てつ」ははっとして目を醒《さ》ました。火の玉はもちろんその時にはもうどこかへ消え失《う》せていた。しかし「てつ」の信ずるところによればそれは四、五日前に死んだ「てつ」の飼い猫《ねこ》の魂がじゃれに来たに違いないというのだった。

     六 草双紙

 僕の家《うち》の本箱には草双紙《くさぞうし》がいっぱいつまっていた。僕はもの心のついたころからこれらの草双紙を愛していた。ことに「西遊記《さいゆうき》」を翻案した「金毘羅利生記《こんぴらりしょうき》」を愛していた。「金毘羅利生記」の主人公はあるいは僕の記憶に残った第一の作中人物かもしれない。それは岩裂《いわさき》の神という、兜巾鈴懸《ときんすずか》けを装った、目《ま》なざしの恐ろしい大天狗《だいてんぐ》だった。

     七 お狸様

 僕の家《うち》には祖父の代からお狸様《たぬきさま》というものを祀《まつ》っていた。それは赤い布団にのった一対の狸の土偶《でく》だった。僕はこのお狸様にも何か恐怖を感じていた。お狸様を祀ることはどういう因縁によったものか、父や母さえも知らないらしい。しかしいまだに僕の家には薄暗い納戸《なんど》の隅《すみ》の棚《たな》にお狸様の宮を設け、夜は必ずその宮の前に小さい蝋燭《ろうそく》をともしている。

     八 蘭

 僕は時々狭い庭を歩き、父の真似《まね》をして雑草を抜いた。実際庭は水場だけにいろいろの草を生じやすかった。僕はある時|冬青《もち》の木の下に細い一本の草を見つけ、早速それを抜きすててしまった。僕の所業を知った父は「せっかくの蘭《らん》を抜かれた」と何度も母にこぼしていた。が、格別、そのために叱《しか》られたという記憶
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