なかった。のみならずまだ新しい紺暖簾《こんのれん》の紋も蛇《じゃ》の目《め》だった。僕らは時々この店へ主人の清正を覗《のぞ》きに行った。清正は短い顋髯《あごひげ》を生《は》やし、金槌《かなづち》や鉋《かんな》を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。
三三 七不思議
そのころはどの家もランプだった。したがってどの町も薄暗かった。こういう町は明治とは言い条、まだ「本所《ほんじょ》の七不思議」とは全然縁のないわけではなかった。現に僕は夜学の帰りに元町通りを歩きながら、お竹倉の藪《やぶ》の向こうの莫迦囃《ばかばや》しを聞いたのを覚えている。それは石原か横網かにお祭りのあった囃しだったかもしれない。しかし僕は二百年来の狸《たぬき》の莫迦囃しではないかと思い、一刻も早く家へ帰るようにせっせと足を早めたものだった。
三四 動員令
僕は例の夜学の帰りに本所《ほんじょ》警察署の前を通った。警察署の前にはいつもと変わり、高張り提灯《ぢょうちん》が一対ともしてあった。僕は妙に思いながら、父や母にそのことを話した。が、誰《だれ》も驚かなかった。それは僕の留守《るす》の間に「動員令発せらる」という号外が家《うち》にも来ていたからだった。僕はもちろん日露戦役に関するいろいろの小事件を記憶している。が、この一対の高張り提灯ほど鮮《あざや》かに覚えているものはない。いや、僕は今日でも高張り提灯を見るたびに婚礼や何かを想像するよりもまず戦争を思い出すのである。
三五 久井田卯之助
久井田《ひさいだ》という文字は違っているかもしれない。僕はただ彼のことをヒサイダさんと称していた。彼は僕の実家にいる牛乳配達の一人だった。同時にまた今日ほどたくさんいない社会主義者の一人だった。僕はこのヒサイダさんに社会主義の信条を教えてもらった。それは僕の血肉には幸か不幸か滲《し》み入らなかった。が、日露戦争中の非戦論者に悪意を持たなかったのは確かにヒサイダさんの影響だった。
ヒサイダさんは五、六年前に突然僕を訪問した。僕が彼と大人《おとな》同士の社会主義論をしたのはこの時だけである。(彼はそれから何か月もたたずに天城山《あまぎさん》の雪中に凍死してしまった)しかし僕は社会主義論よりも彼の獄中生活などに興味を持たずにはいられなかった。
「夏目さ
前へ
次へ
全14ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング