、静に潮の匂のする欄外の空気を揺《ゆす》りながら、今更のやうに暦の秋を二人の客の胸にしみ渡らせた。風に動いてゐる伊予簾《いよすだれ》、御浜御殿の森の鴉《からす》の声、それから二人の間にある盃洗《はいせん》の水の冷たい光――女中の運ぶ燭台の火が、赤く火先《ほさき》を靡《なび》かせながら、梯子段の下から現はれるのも、もう程がないのに相違あるまい。
小弁慶の単衣《ひとへ》を着た男は、相手が猪口をとり上げたのを見ると、早速徳利の尻をおさへながら、
「いや、はや、飛んでも無えたはけがあるものだ。日本の盗人《ぬすつと》の守り本尊、私《わつち》の贔屓《ひいき》の鼠小僧を何だと思つてゐやがる。親分なら知ら無え事、私《わつち》だつたらその野郎をきつと張り倒してゐやしたぜ。」
「何もそれ程に業《ごふ》を煮やす事は無え。あんな間抜な野郎でも、鼠小僧と名乗つたばかりに、大きな面が出来たことを思や、鼠小僧もさぞ本望だらう。」
「だつとつて御前《おめえ》さん、そんな駈け出しの胡麻の蠅に鼠小僧の名をかたられちや――」
剳青《ほりもの》のある、小柄な男は、まだ云ひ争ひたい気色《けしき》を見せたが、色の浅黒い、唐桟
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