。……」
 彼はようやく立ち上った。そうしてまだ知らない国の方へ、おもむろに山を下《くだ》り出した。
 その内に朝焼の火照《ほて》りが消えると、ぽつぽつ雨が落ちはじめた。彼は一枚の衣《ころも》のほかに、何もまとってはいなかった。頸珠《くびだま》や剣《つるぎ》は云うまでもなく、生捉《いけど》りになった時に奪われていた。雨はこの追放人《ついほうにん》の上に、おいおい烈しくなり始めた。風も横なぐりに落して来ては、時々ずぶ濡れになった衣の裾を裸《はだか》の脚へたたきつけた。彼は歯を食いしばりながら、足もとばかり見つめて歩いた。
 実際眼に見えるものは、足もとに重なる岩だけであった。そのほかは一面に暗い霧が、山や谷を封じていた。霧の中では風雨の音か、それとも谷川の水の音か、凄《すさま》じくざっと遠近《おちこち》に煮えくり返る音があった。が、彼の心の中には、それよりもさらに凄じく、寂しい怒が荒れ狂っていた。

        二十四

 やがて足もとの岩は、湿った苔《こけ》になった。苔はまた間もなく、深い羊歯《しだ》の茂みになった。それから丈《たけ》の高い熊笹《くまざさ》に、――いつの間にか素戔嗚《すさのお》は、山の中腹を埋《うず》めている森林の中へはいったのであった。
 森林は容易に尽きなかった。風雨も依然として止まなかった。空には樅《もみ》や栂《とが》の枝が、暗い霧を払いながら、悩ましい悲鳴を挙げていた。彼は熊笹を押し分けて、遮二無二《しゃにむに》その中を下って行った。熊笹は彼の頭を埋めて、絶えず濡れた葉を飛ばせていた。まるで森全体が、彼の行手を遮《さえぎ》るべく、生きて動いているようであった。
 彼は休みなく進み続けた。彼の心の内には相不変《あいかわらず》鬱勃《うつぼつ》として怒が燃え上っていた。が、それにも関らず、この荒れ模様の森林には、何か狂暴な喜びを眼ざまさせる力があるらしかった。彼は草木や蔦蘿《つたかずら》を腕一ぱいに掻《か》きのけながら、時々大きな声を出して、吼《うな》って行く風雨に答えたりした。
 午《ひる》もやや過ぎた頃、彼はとうとう一すじの谷川に、がむしゃらな進路を遮られた。谷川の水のたぎる向うは、削《けず》ったような絶壁であった。彼はその流れに沿って、再び熊笹を掻き分けて行った。するとしばらくして向うの岸へ、藤蔓《ふじづる》を編んだ桟橋《かけはし》が、水
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