訪問した。T先生は玄関へ顔を出すと、「わたしがTです。ではさやうなら」と言つたぎり、さつさと奥へ引きこまうとした。武さんは慌《あわ》ててT先生を呼びとめ、もう一度あらゆる事情を話した。
「さあ、それはむづかしい。……どうです、Uさんのところへ行つて見ては?」
 武さんはやつと三度目にU先生に辿《たど》り着いた。U先生は小説家ではない。名高い基督《キリスト》教的思想家だつた。武さんはこのU先生により、次第に信仰へはひつて行つた。同時に又次第に現世《げんせ》には珍らしい生活へはひつて行つた。
 それは唯はた目には石鹸《せつけん》や歯磨《はみが》きを売る行商《ぎやうしやう》だつた。しかし武さんは飯《めし》さへ食へれば、滅多《めつた》に荷を背負《せお》つて出かけたことはなかつた。その代りにトルストイを読んだり、蕪村《ぶそん》句集講義を読んだり、就中《なかんづく》聖書を筆写したりした。武さんの筆写した新旧約聖書は何千枚かにのぼつてゐるであらう。兎《と》に角《かく》武さんは昔の坊さんの法華経《ほけきやう》などを筆写したやうに勇猛に聖書を筆写したのである。
 或夏の近づいた月夜、武《たけ》さんは荷物を背負《せお》つたまま、ぶらぶら行商《ぎやうしやう》から帰つて来た。すると家の近くへ来た時、何か柔《やはら》かいものを踏みつぶした。それは月の光に透かして見ると、一匹の蟇《ひき》がへるに違ひなかつた。武さんは「俺《おれ》は悪いことをした」と思つた。それから家へ帰つて来ると、寝床の前に跪《ひざまづ》き、「神様、どうかあの蟇《ひき》がへるをお助け下さい」と十分ほど熱心に祈祷《きたう》をした。(武さんは立ち小便をする時にも草木《くさき》のない所にしたことはない。尤《もつと》もその為に一本の若木の枯れてしまつたことは確かである。)
 武さんを翌朝起したのはいつも早い牛乳配達だつた。牛乳配達は武さんの顔を見ると、紫がかつた壜《びん》をさし出しながら、晴れやかに武さんに話しかけた。
「今あすこを通つて来ると、踏みつぶされた蟇《ひき》がへるが一匹向うの草の中へはひつて行《ゆ》きましたよ。蟇がへるなどといふやつは強いものですね。」
 武さんは牛乳配達の帰つた後《あと》、早速《さつそく》感謝の祈祷をした。――これは武さんの直話《ぢきわ》である。僕は現世にもかういふ奇蹟《きせき》の行はれるといふことを語りたいのではない。唯現世にもかういふ人のゐるといふことを語りたいのである。僕の考へは武さんの考へとは、――僕にこの話をした武さんの考へとは或は反対になるであらう。しかし僕は不幸にも武さんのやうに信仰にはひつてゐない。従つて考への喰ひ違ふのはやむを得ないことと思つてゐる。
[#地から1字上げ](昭和二・五・六)



底本:「芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1971(昭和46)年10月5日初版第5刷発行
入力:j.utiyama
校正:j.utiyama
1999年2月15日公開
2004年3月9日修正
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