て来なかつた。叔母は眉をひそめたまま、半ば彼をからかふやうに「信ちやんに吸つて貰はうか?」と言つた。けれども牛乳に育つた彼は勿論吸ひかたを知る筈はなかつた。叔母はとうとう隣の子に――穴蔵大工の女の子に固い乳房を吸つて貰つた。乳房は盛り上つた半球の上へ青い静脈をうかがつてゐた。はにかみ易い信輔はたとひ吸ふことは出来たにもせよ、到底叔母の乳などを吸ふことは出来ないのに違ひなかつた。が、それにも関らずやはり隣の女の子を憎んだ。同時に又隣の女の子に乳を吸はせる叔母を憎んだ。この小事件は彼の記憶に重苦しい嫉妬ばかり残してゐる。が、或はその外にも彼の Vita sexualis は当時にはじまつてゐたのかも知れない。………
信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥ぢた。これは彼の秘密だつた。誰にも決して知らせることの出来ぬ彼の一生の秘密だつた。この秘密は又当時の彼には或迷信をも伴つてゐた。彼は只頭ばかり大きい、無気味なほど痩せた少年だつた。のみならずはにかみ易い上にも、磨ぎ澄ました肉屋の包丁にさへ動悸の高まる少年だつた。その点は――殊にその点は伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃胆勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違ひなかつた。彼は一体何歳からか、又どう言ふ論理からか、この父に似つかぬことを牛乳の為と確信してゐた。いや、体の弱いことをも牛乳の為と確信してゐた。若し牛乳の為とすれば、少しでも弱みを見せたが最後、彼の友だちは彼の秘密を看破してしまふのに違ひなかつた。彼はその為にどう言ふ時でも彼の友だちの挑戦に応じた。挑戦は勿論一つではなかつた。或時はお竹倉の大溝を棹も使はずに飛ぶことだつた。或時は回向院の大銀杏へ梯子もかけずに登ることだつた。或時に又彼等の一人と殴り合ひの喧嘩をすることだつた。信輔は大溝を前にすると、もう膝頭の震へるのを感じた。けれどもしつかり目をつぶつたまま、南京藻の浮かんだ水面を一生懸命に跳り越えた。この恐怖や逡巡は回向院の大銀杏へ登る時にも、彼等の一人と喧嘩をする時にもやはり彼を襲来した。しかし彼はその度に勇敢にそれ等を征服した。それは迷信に発したにもせよ、確かにスパルタ式の訓練だつた。このスパルタ式の訓練は彼の右の膝頭へ一生消えない傷痕を残した。恐らくは彼の性格へも、――信輔は未だに威丈高になつた父の小言を覚えてゐる。――「貴様は意気地もない癖に、何をす
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