なほこの小事件を思ひ出す度に、――この不思議に美しい灯取虫の生死を思ひ出す度に、なぜか彼の心の底に多少の寂しさを感ずるのである。………
信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出来なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訳ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截断する社会的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の青年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の青年には、――時には中流上層階級の青年にも妙に他人らしい憎悪を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隷だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の為ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの為だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その為に又下流階級に、――彼等の社会的対蹠点に病的な※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等学校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潜り」の少年たちの為に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人の海女《あま》だけは崖の下に焚いた芥火の前に笑つて眺めてゐるばかりだつた。
「今度はあいつも飛びこませてやる。」
彼の友だちは一枚の銅貨を巻煙草の箱の銀紙に包んだ。それから体を反らせたと思ふと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに残酷な微笑を浮べた彼の友だちを覚えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語学の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に鋭い犬歯をも具へてゐた。………… (以下続出)
附記 この小説はもうこの三四倍続けるつもりである。今度掲げるだけに「大導寺信輔の半生」と言ふ題は相当しないのに違ひないが、他に替る題もない為にやむを得ず用ひる
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