る為には本を読むより外はなかつた。本を、――殊に世紀末の欧羅巴の産んだ小説や戯曲を。彼はその冷たい光の中にやつと彼の前に展開する人間喜劇を発見した。いや、或は善悪を分たぬ彼自身の魂をも発見した。それは人生には限らなかつた。彼は本所の町々に自然の美しさを発見した。しかし彼の自然を見る目に多少の鋭さを加へたのはやはり何冊かの愛読書、――就中元禄の俳諧だつた。彼はそれ等を読んだ為に「都に近き山の形」を、「鬱金畠の秋の風」を、「沖の時雨の真帆片帆」を、「闇のかた行く五位の声」を、――本所の町々の教へなかつた自然の美しさをも発見した。この「本から現実」へは常に信輔には真理だつた。彼は彼の半生の間に何人かの女に恋愛を感じた。けれども彼等は誰一人女の美しさを教へなかつた。少くとも本に学んだ以外の女の美しさを教へなかつた。彼は日の光を透かした耳や頬に落ちた睫毛の影をゴオテイエやバルザツクやトルストイに学んだ。女は今も信輔にはその為に美しさを伝へてゐる。若しそれ等に学ばなかつたとすれば、彼は或は女の代りに牝ばかり発見してゐたかも知れない。…………
尤も貧しい信輔は到底彼の読むだけの本を自由に買ふことは出来なかつた。彼のかう言ふ困難をどうにかかうにか脱したのは第一に図書館のおかげだつた。第二に貸本屋のおかげだつた。第三に吝嗇の譏さへ招いだ彼の節倹のおかげだつた。彼ははつきりと覚えてゐる――大溝に面した貸本屋を、人の好い貸本屋の婆さんを、婆さんの内職にする花簪を。婆さんはやつと小学へ入つた「坊ちやん」の無邪気を信じてゐた。その「坊ちやん」はいつの間にか本を探がす風を装ひながら、偸み読みをすることを発明してゐた。彼は又はつきりと覚えてゐる。――古本屋ばかりごみごみ並んだ二十年前の神保町通りを、その古本屋の屋根の上に日の光を受けた九段坂の傾斜を。勿論当時の神保町通りは電車も馬車も通じなかつた。彼は――十二歳の小学生は弁当やノオト・ブツクを小脇にしたまま、大橋図書館へ通ふ為に何度もこの通りを往復した。道のりは往復一里半だつた。大橋図書館から帝国図書館へ。彼は帝国図書館の与へた第一の感銘をも覚えてゐる。――高い天井に対する恐怖を、大きい窓に対する恐怖を、無数の椅子を埋め尽した無数の人々に対する恐怖を。が、恐怖は幸ひにも二三度通ふうちに消滅した。彼は忽ち閲覧室に、鉄の階段に、カタロオグの箱に、地
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