の梁《はり》に吊《つ》った人間の腿《もも》を想像した。想像?――しかしその想像は現実よりも一層現実的だった。彼は又何度も木剣を提げ、干し菜をぶら下げた裏庭に「水滸伝」中の人物と、――一丈青|扈三娘《こさんじょう》や花和尚|魯智深《ろちしん》と格闘した。この情熱は三十年間、絶えず彼を支配しつづけた。彼は度たび本を前に夜を徹したことを覚えている。いや、几上《きじょう》、車上、厠上《しじょう》、――時には路上にも熱心に本を読んだことを覚えている。木剣は勿論《もちろん》「水滸伝」以来二度と彼の手に取られなかった。が、彼は本の上に何度も笑ったり泣いたりした。それは言わば転身だった。本の中の人物に変ることだった。彼は天竺《てんじく》の仏のように無数の過去生を通り抜けた。イヴァン・カラマゾフを、ハムレットを、公爵アンドレエを、ドン・ジュアンを、メフィストフェレスを、ライネッケ狐を、――しかもそれ等の或ものは一時の転身には限らなかった。現に或晩秋の午後、彼は小遣いを貰う為に年とった叔父を訪問した。叔父は長州|萩《はぎ》の人だった。彼はことさらに叔父の前に滔々《とうとう》と維新の大業を論じ、上は村田清風
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