の町々は更に彼には不快だった。しもた家の多い山の手を始め小綺麗《こぎれい》な商店の軒を並べた、江戸伝来の下町も何か彼を圧迫した。彼は本郷や日本橋よりも寧《むし》ろ寂しい本所を――回向院を、駒止《こまど》め橋《ばし》を、横網を、割り下水を、榛《はん》の木馬場を、お竹倉の大溝を愛した。それは或は愛よりも憐《あわれ》みに近いものだったかも知れない。が、憐みだったにもせよ、三十年後の今日さえ時々彼の夢に入るものは未だにそれ等の場所ばかりである…………
 信輔はもの心を覚えてから、絶えず本所の町々を愛した。並み木もない本所の町々はいつも砂埃《すなぼこ》りにまみれていた。が、幼い信輔に自然の美しさを教えたのはやはり本所の町々だった。彼はごみごみした往来に駄菓子を食って育った少年だった。田舎は――殊に水田の多い、本所の東に開いた田舎はこう言う育ちかたをした彼には少しも興味を与えなかった。それは自然の美しさよりも寧ろ自然の醜さを目のあたりに見せるばかりだった。けれども本所の町々はたとい自然には乏しかったにもせよ、花をつけた屋根の草や水たまりに映った春の雲に何かいじらしい美しさを示した。彼はそれ等の美し
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