腹は十人、夫人の産みし二子を除きては、余は皆側妾の所出なり。(中略)其の最後にお勝が腹に末女を挙げさせしは、既に将軍職を伜に渡して、駿府に隠居せし身にて、老いても壮なる六十六歳[#「六十六歳」に傍点]の時なりとぞ識られける。其の他この豪傑が戯に手折られながら、子を結ばで空しく散りにし花は亦一二に止まらざるべし。実に家康も英雄色を好むの古則に漏るる能はじ。秀吉は北条征伐の陣中より淀君が許に一書を寄せて、『二十日ごろに、かならず参候て、わかぎみ(鶴松)だき[#「だき」に傍点]可申候。そのよさに、そもじをも、そばにねさせ可申候[#「そばにねさせ可申候」に傍点]。せつかく御まち[#「まち」に傍点]候可候』とは言ひ越しき。天真爛漫といはばいへ、又痴情めきたる嫌なからずやは。家康には表面さる事見えざりしかど、所詮言ふと言はぬとの相違にて、実は両雄とも多情の男なりけん。深きは言はぬ方なるべし[#「深きは言はぬ方なるべし」に傍点]。
「さはれ流石に思慮深き家康は、秀吉の如く閨門《けいもん》の裡に一家滅亡の種を蒔《ま》かず、其が第一の禁物たる奢[#「奢」に傍点]は女中にも厳に仮《ゆる》さで、奥向にも倹素の風行はれしは、彼の本多佐渡守が秀忠将軍の乳母なる大婆に一言咎められて、返す詞も無かりし一場の話に徴して知るべし。駿府にて女房等が大根の漬物の塩辛きに困じて、家康に歎きけるを、厨《くりや》の事をば沙汰しける松下常慶《まつしたじやうけい》を召して今少し塩加減よくすべしと諭ししかば、此の老人主が側に進み寄りて、何事をかささやきしに、主は言葉なくして唯笑ひけるを、彼れ其の儘退きしと云ふ。
「老人ささやきしは、『今の如く塩辛く漬けさせ候てさへ、朝夕の用夥しきものを女房達の好みの如く、塩加減いたし候はば、何ほどの費用に及ぶべきも計りがたし。女房達の申す詞など聞し召さぬ様にて、わたらせ給ふこそ然るべけれ』とは曰ひしなりけり。常慶も塩辛き男なれば、家康が笑ひし腹加減[#「腹加減」に傍点]も大に塩辛かりけり。天下を取りし後だに此くの如し。三河の事想ふべし。(中略)
「『近年日課を六万遍唱へ候事、老人いらぬ過役《くわえき》にて候。遍数減らし候様に皆々申聞候。成程遍数をへらし候へば、楽に成り候得共、幼少より戦国に生れ、多くの人を殺し候得ば、せめて罪ほろぼしにもなり候半《さふらはん》。且年若より一日も隙《ひま》に暮したる事なき身故、何ぞの業を致度候得ども、それもいらぬ事故、念仏を日々の稽古事の様に致し候ゆへ、毎日朝起いたし[#「毎日朝起いたし」に傍点]、夜もはやくは休不申[#「夜もはやくは休不申」に傍点]、おこたらぬやうにこころ懸候事。夫故食事の中《あた》りもなく健にて、念仏の影と存候。』と言へるを看ても、裏面の行跡に大に放縦の振舞なかりしは察すべし。但し彼の秀吉すら「女に心|不[#レ]可[#レ]免《ゆるすべからず》」と戒めたれば、家康が清浄潔白の念仏談も、曾《かつ》て一時に数人の侍妾を設け置きし覚えある男の言と識るべし。人を殺しし罪ほろぼしの外に言ひ難き懺悔[#「言ひ難き懺悔」に傍点]の珠数をば繰らざりしにや。徒士《かち》の者奥の女中に文を送りしとて、徒士頭松平若狭守改易の罪に処せられきと伝ふれば、奥向の規律の厳正なりしを窺ふべし。亦窮屈なる規則の内にても、主人には之を潜りて融通の道ありしを忘るべからず。三河に在りし頃は特に何事も手軽[#「手軽」に傍点]なりしなるべし。家康年積みて処世の道に熟しては、(中略)
「おのれ常に老臣共の衆評を聴きて、一人に権を占めさせじと努めし跡は、歴々として史上にも残りけるが、表の政治に用ゐし此筆法は、奥の女中を制御するにも応用して、一人の女に寵を専《もつぱら》にさせじと抑えしは疑あらず。十六人の子を挙げし十人の妻妾、二人より多くを産みし者なかりしは、深き仔細ありぬるにや。強《あなが》ち偶然の事のみにあらざるべし。」(胡麻点は原文のを保存したのである。)
 この徳川家康は女色を愛する老爺たるばかりか、産児制限をも行ふ政治家である。これは明かに三百年来、我我の見慣れた家康ではない。我我の見慣れた家康よりもはるかに人間らしい家康である。はるかに人間らしい、――諸君は或は僕の言葉の平凡過ぎるのに微笑するであらう。「人間らしい」と云ふ言葉は勿論非凡でも何でもない。あらゆる新刊の小説や戯曲は必ずその広告の中に「人間らしい苦しみ」とか「人間らしい生活」とか、人間らしい万事を売りものにしてゐる。が、それらの小説や戯曲は果してどの位広告通り、人間らしい何ものかを捉へてゐるのであらうか? 殊に英雄の伝記の作者は無邪気なる英雄崇拝者でなければ、古色蒼然たるモオラリストである。成程彼等の或者は人間らしさを説いてゐるかも知れない。しかし彼等の人間らしさも実際彼等の吹聴するやうに人間らしいかどうかは疑問である。彼等はいつも厳然とかう諸君に云ふであらう。――「英雄も勿論凡人ではない。が、神には生れない以上、やはり凡人たる半面をも具へてゐたことは確かである。すると我我の目の前に何の某と云ふ人物を立たせ、その何の某の英雄たることを認めさせる為には、凡人たらざる半面を指摘すると同時に凡人たる半面をも指摘してなければならぬ。在来の伝記の英雄に人間らしさの欠けてゐるのはかう云ふ用意の足りぬ為である。……」
 けれどもこれだけの用意さへすれば、果して彼等の云ふやうに、人間らしい英雄を示し得るであらうか? たとへば諸君の軽蔑する「漢楚軍談《かんそぐんだん》」を披《ひら》いて見るが好い。「漢楚軍談」の漢の高祖は秦の始皇の夢に入つたり、白帝の子たる大蛇を斬つたり、凡人ならざる半面を大いに示してゐるかと思へば、女楽を好んだり、士に傲《おご》つたり、凡人に劣らぬ半面をもやはり大いに示してゐる。しかし「漢楚軍談」の漢の高祖に王者の真面目《しんめんもく》を発見するものは三尺の童子ばかりと云はなければならぬ。もう一つ次手《ついで》に例を挙げれば、諸君の「漢楚軍談」よりも常に一層信用せぬ歴史、――新聞の記事を読んで見るが好い。新聞の記事の大臣も民意を体したり、憲政を擁護したり、凡人たらざる半面を大いに示してゐるかと思へば、※[#「言+墟のつくり」、第3水準2−88−74]をついたり、金を盗んだり、大凡下《だいぼんげ》たる半面さへやはり大に示してゐる。が、新聞の記事の大臣に英雄の真面目は少時問はず、凡人の真面目さへ発見するものは三尺の童子――ではないにもしろ、六尺の童子ばかりと云はなければならぬ。すると彼等の云ふやうに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘することは少しも英雄の英雄たる所以を明らかにしない道理である。彼等はこの道理にも頓着せず、神経衰弱に罹つたエホバのやうに彼等の所謂人間らしい英雄なるものを創造した。その結果はどうだつたか? 山積する彼等の伝記の中から我我の目の前に浮んで来るものは丁度両頭の蛇のやうに凡人たらざる半面と凡人たる半面とを左右へ出した、滑稽なる精神的怪物である。英雄崇拝者の英雄は英雄よりも寧ろ神であらう。モオラリストの英雄も余りに善玉でないとすれば、余りに悪玉であるかも知れない。しかし彼等の英雄は或統一を保つてゐる限り、人間らしいとは云ひ難いにもしろ、人形らしい可愛らしさを示してゐる。けれども一部の伝記の作者の所謂人間らしい英雄はかう云ふ可愛らしささへ示してゐない。就中《なかんづく》彼等の創造した征夷大将軍徳川家康は最も不快なる怪物である。聖アントニウスを誘惑した、如何なる地獄の眷属《けんぞく》よりも一層不快なる怪物である。
 湖州の徳川家康は是等の怪物に比べずとも、おのづから人間らしい英雄である。この相違は何処から来たか? 湖州は家康を論ずるのに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘したのではない。唯凡人たる半面と凡人たらざる半面との融合する一点を指摘した、――と云ふよりも寧ろ英雄の中に黙々と生を営んでゐる人間全体を指摘したのである。これは言葉の穿鑿《せんさく》だけすれば、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘するのと毫釐《がうり》の相違に過ぎないかも知れない。が、事実は千里の山河を隔絶したにもひとしい相違である。凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘するのは凡庸なる作者にも成し得るであらう。しかし神采奕々《しんさいえきえき》たる人間全体を指摘するのは一代の才人を待たなければならぬ。湖州の前人を凌駕《りようが》する所以はこの人間全体を指摘した烱眼に存してゐる。湖州自身も史上の人物に人間全体を発見することは絶えず工夫を凝らしたものらしい。たとへば明治二十七八年頃の「随感録」と題する随筆は次の一節を録してゐる。
「書を読て、心緒|忽然《こつぜん》として古人に触れ、静夜月を仰ぎて、感慨湧然として古人に及ぶ。同情の念|沸々《ふつふつ》として起る。是等を観察し、彼を沈思す。大抵誤まらざるを得。」
 更に略々《ほぼ》同時代に成つた「伝記私言数則」は悉《ことごとく》このことに及んでゐる。
「事実に依りて心術を悟り、心術を悟りて更に事実を解す。然れども其間往々矛盾するものあり。人は外界の事情に制せられて、己れの意志を枉《ま》げて心ならざる事を行ふ。此隠秘の関繋を説明するを至要とす。
「人は短所と長所との縫合物なり。一の長所あれば、必ず之れに短所伴ふ。短所を視れば、乃《すなは》ち其長所を知るべし。君子は其過を見て其仁を知る、亦此の意なり。能と不能とを明識するもの、始めて人を談ずべし。
「人の世に立つ、各自皆一個の位地を占む。之を見るもの同等の地位に立ちて見るを要す。決して上より見るべからず。下より見るべからず。一郷の人は一郷の眼を以て見るべく、一国の人は一国の眼を以て見るべく、天下の人は天下の眼を以て見るべし。」
 是等の言葉は湖州によれば、いづれも史上の人物に対する観照の態度を述べたものである。けれども湖州は古人にばかり、かう云ふ観照を加へたのであらうか? いや、徳川家康をも冷眼に眺めた大久保湖州に唯史上の人物にばかり、かう云ふ観照を加へろと云ふのは出来ない相談ではないであらうか? 水谷不倒の湖州君小伝によれば「君、(中略)人に接するや寛容にして能く客を遇す。故に君の門を叩くもの日に絶えず、而して客の種類を問へば、概ね未来に属する政治家、文学者、詩人、美術家、史家、哲学者、事業家等あり。」だつたさうである。未来に属する政治家、文学者、詩人、美術家、史家、哲学者、事業家などと云ふものは勿論書生だつたのに違ひない。湖州は必ず是等の人々に独特の烱眼を注いだのであらう。同時に又是等の人々の中に、貪慾なる、奸譎《かんけつ》なる、野卑なる、愚昧なる、放漫なる、が、常に同情を感ずる人間全体を見出したのであらう。僕の信ずる所によれば、湖州たる所以は徳川家康と云ふ英雄の中に人間全体を発見する前に、この所謂未来に属する政治家、文学者、詩人、美術家、史家、哲学者、事業家などの一群の中に人間全体を発見したことである。大いなる支那の賢人は「古きを温《たづ》ね、新らしきを知る」と云つた。成程神功皇后の古きを温ね奉ることは勇敢なる婦人参政権論者の新らしきを知ることになるかも知れない。しかし又逆に新らしきを温ね、古きを知ることも確である。のみならず新らしきも知らない癖に、古きばかり温ねるのは新古ともに茫々たる魔境に墜ちることも確かである。不幸にも当世の伝記の作者は大抵この魔境に安住した。彼等は史上の人物を知つてゐると信じてゐる。が、彼等自身をはじめ、彼等の父母妻子の人間たることさへ一度も真に知らずに来た彼等に、糢糊たる史上の人物はどの位心臓を窺はせるであらうか? 湖州はかう云ふ出発点から、既に彼等とは反対の道へ精進の歩みを運んでゐる。湖州の徳川家康の人間らしい英雄となり得たのも偶然ではないと云はなければならぬ。
「家康(中略)、おのが庶子|於義丸《おぎまる》を遣し、石川数正が子の勝千代と、作左衛門が子の仙千代とを附添へて都に登しぬ。(僕曰、小牧山の戦後、都にゐる秀吉に事実上の
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