であらう。且又湖州は早稲田大学の前に銅像か何か建てられたとしても、依然たる薄命の歴史家である。成程「家康と直弼」は彼の面目を伝へるかも知れない。しかし彼の畢生の事業は「井伊直弼伝」の大成である。彼はこの事業の為に三十六年の心血を瀝《そそ》いだ。が、死は彼の命と共に「井伊直弼伝」をも奪ひ去つてしまつた。「こころざしなかばもとげぬ我身だにつひに行くべき道にゆきにけり」――水谷不倒の湖州君小伝によれば、死に臨んだ彼は満腔の遺憾をかう云ふ一首に託したさうである。これをしも薄命と呼ばないとすれば、何ごとを薄命と呼ぶであらう? 僕は少くとも中道に仆《たふ》れた先達の薄命を弔はなければならぬ。
大久保湖州の作品は第一に「徳川家康篇」である。第二に「井伊直弼篇」である。第三に「遺老の実歴談に就きて」である。第三の「遺老の実歴談に就きて」は「明治維新の前後に際会して国事に与《あづか》りし遺老の実歴談多く世に出づる」に当り、その史料的価値を考へた三十頁ばかりの論文に過ぎない。第二の「井伊直弼篇」も「井伊大老は開国論者に非ずといふに就いて」、「岡本黄石《をかもとくわうせき》」、「長野主膳《ながのしゆぜん》」の三篇の論文を寄せ集めた、たとへば「井伊直弼伝」と云ふ計画中の都市の一部分である。しかし第一の「徳川家康篇」だけは幸ひにも未成品に畢《をは》つてゐない。いや僕の信ずる所によれば、寧ろ前人を曠《むなし》うした、戞々《かつかつ》たる独造底《どくざうてい》の完成品である。
一部の「徳川家康篇」は年少の家康を論じた「徳川家康」、中年の家康を論じた「鬼作左《おにさくざ》」、老年の家康を論じた「本多佐渡守《ほんださどのかみ》」の三篇の論文から成り立つてゐる。(尤《もつと》も湖州はかう云ふ順序に是等の論文を書いた訳ではない。「徳川家康」は明治三十一年、「鬼作左」は明治三十年、「本多佐渡守」は明治二十九年、――即ち作品の順序とは全然反対に筆を執つたのである。)是等の論文は必しも金玉の名文と云ふ訳ではない。同時に又格別新しい史料に立脚してゐると云ふ次第でもない。しかし是等の論文の中から我々の目の前に浮んで来る征夷大将軍徳川家康は所謂歴史上の家康よりも数等に家康らしい家康である。たとへば「徳川家康」の中に女人に対する家康を論じた下の一節を読んで見るがよい。
「家康の子、男女合はせて十六人、之れを生みし腹は十人、夫人の産みし二子を除きては、余は皆側妾の所出なり。(中略)其の最後にお勝が腹に末女を挙げさせしは、既に将軍職を伜に渡して、駿府に隠居せし身にて、老いても壮なる六十六歳[#「六十六歳」に傍点]の時なりとぞ識られける。其の他この豪傑が戯に手折られながら、子を結ばで空しく散りにし花は亦一二に止まらざるべし。実に家康も英雄色を好むの古則に漏るる能はじ。秀吉は北条征伐の陣中より淀君が許に一書を寄せて、『二十日ごろに、かならず参候て、わかぎみ(鶴松)だき[#「だき」に傍点]可申候。そのよさに、そもじをも、そばにねさせ可申候[#「そばにねさせ可申候」に傍点]。せつかく御まち[#「まち」に傍点]候可候』とは言ひ越しき。天真爛漫といはばいへ、又痴情めきたる嫌なからずやは。家康には表面さる事見えざりしかど、所詮言ふと言はぬとの相違にて、実は両雄とも多情の男なりけん。深きは言はぬ方なるべし[#「深きは言はぬ方なるべし」に傍点]。
「さはれ流石に思慮深き家康は、秀吉の如く閨門《けいもん》の裡に一家滅亡の種を蒔《ま》かず、其が第一の禁物たる奢[#「奢」に傍点]は女中にも厳に仮《ゆる》さで、奥向にも倹素の風行はれしは、彼の本多佐渡守が秀忠将軍の乳母なる大婆に一言咎められて、返す詞も無かりし一場の話に徴して知るべし。駿府にて女房等が大根の漬物の塩辛きに困じて、家康に歎きけるを、厨《くりや》の事をば沙汰しける松下常慶《まつしたじやうけい》を召して今少し塩加減よくすべしと諭ししかば、此の老人主が側に進み寄りて、何事をかささやきしに、主は言葉なくして唯笑ひけるを、彼れ其の儘退きしと云ふ。
「老人ささやきしは、『今の如く塩辛く漬けさせ候てさへ、朝夕の用夥しきものを女房達の好みの如く、塩加減いたし候はば、何ほどの費用に及ぶべきも計りがたし。女房達の申す詞など聞し召さぬ様にて、わたらせ給ふこそ然るべけれ』とは曰ひしなりけり。常慶も塩辛き男なれば、家康が笑ひし腹加減[#「腹加減」に傍点]も大に塩辛かりけり。天下を取りし後だに此くの如し。三河の事想ふべし。(中略)
「『近年日課を六万遍唱へ候事、老人いらぬ過役《くわえき》にて候。遍数減らし候様に皆々申聞候。成程遍数をへらし候へば、楽に成り候得共、幼少より戦国に生れ、多くの人を殺し候得ば、せめて罪ほろぼしにもなり候半《さふらはん》。且年若より一日も隙《ひ
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