る。それから何年か(或は何箇月か)同棲生活の後、その女人と交《まじは》ることに対する嫌悪の情を与へてゐる。それから、……
 しかし社会の命令は自然の命令と一致してゐない。のみならず屡《しばしば》反対してゐる。そればかりならば差支へない(?)。しかし僕等は僕等自身の中に自然の命令を否定する何か不思議なるものを持ち合せてゐる。従つてあらゆる自然主義者は理論上最左翼に立たなければならぬ。或は最左翼の向うにある暗黒の中に立たなければならぬ。
「地球の外へ!」と云ふボオドレエルの散文詩は決して机の上の産物ではない。

     六 ハムズン

 性慾の中に詩のあることは前人もとうに発見してゐた。が、食慾の中にも詩のあることはハムズンを待たなければならなかつたのである。何と云ふ僕等の間抜けさ加減!

     七 語彙

「夜明け」と云ふ意味の「平明」はいつか「手のこまない」と云ふ意味に変り、「死んだ父」と云ふ意味の「先人」はいつか「古人」と云ふ意味に変つてゐる。僕自身も「姿」とか「形」とか云ふ意味に「ものごし」と云ふ言葉を使ひ、凄《すさ》まじい火災の形容に「大紅蓮《だいぐれん》」と云ふ言葉を使つた。僕等の語彙《ごゐ》はこの通り可也《かなり》混乱を生じてゐる。「随一人《ずゐいちにん》」と云ふ言葉などは誰も「第一人」と云ふ意味に使はないものはない。が、誰も皆間違つてしまへば、勿論間違ひは消滅するのである。従つてこの混乱を救ふ為には、――一人残らず間違つてしまへ。

     八 コクトオの言葉

「芸術は科学の肉化したものである」と云ふコクトオの言葉は中《あた》つてゐる。尤も僕の解釈によれば「科学の肉化したもの」と云ふ意味は「科学に肉をつけた」と云ふ意味ではない。科学に肉をつけることなどは職人でも容易に出来るであらう。芸術はおのづから血肉の中に科学を具へてゐる筈である。いろいろの科学者は芸術の中から彼等の科学を見つけるのに過ぎない。芸術の――或は直観の尊さはそこに存してゐるのである。
 僕はこのコクトオの言葉の新時代の芸術家たちに方向を錯《あやま》らせることを惧《おそ》れてゐる。あらゆる芸術上の傑作は「二二が四」に終つてゐるかも知れない。しかし決して「二二が四」から始まつてゐるとは限らないのである。僕は必ずしも科学的精神を抛《はふ》つてしまへと云ふのではない。が、科学的精神は詩的精神を重んずる所に逆説的にも潜んでゐると云ふ事実だけを指摘したいのである。

     九 「若し王者たりせば」

「我|若《も》し王者たりせば」と云ふ映画によれば、あらゆる犯罪に通じてゐた抒情詩人フランソア・ヴイヨンは立派な愛国者に変じてゐる。それから又シヤロツト姫に対する純一無雑の恋人に変じてゐる。最後に市民の人気を集めた所謂「民衆の味かた」になつてゐる。が、若しチヤプリンさへ非難してやまない今日のアメリカにヴイヨンを生じたとすれば、――そんなことは今更のやうに言はずとも善い。歴史上の人物はこの映画の中のヴイヨンのやうに何度も転身を重ねるのであらう。「我若し王者たりせば」は実にアメリカの生んだ映画だつた。
 僕はこの映画を見ながら、ヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜《せいさう》を数へ、「蓋棺《がいくわん》の後」などと云ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獣化(?)かの外にある筈はない。しかし何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香《かう》を焚かれるのは唯「幸福なる少数」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には[#「一面には」に傍点]愛国者兼「民衆の味かた」兼模範的恋人として香を焚かれてゐるではないか?
 しかし僕の感情は僕のかう考へるうちにもやはりはつきりと口を利いてゐる。――「ヴイヨンは兎に角大詩人だつた。」

     十 二人の紅毛画家

 ピカソはいつも城を攻めてゐる。ジアン・ダアクでなければ破れない城を。彼は或はこの城の破れないことを知つてゐるかも知れない。が、ひとり石火矢《いしびや》の下に剛情にもひとり城を攻めてゐる。かう云ふピカソを去つてマテイスを見る時、何か気易さを感じるのは必しも僕一人ではあるまい。マテイスは海にヨツトを走らせてゐる。武器の音や煙硝《えんせう》の匂はそこからは少しも起つて来ない。唯桃色の白の縞《しま》のある三角の帆だけ風を孕《はら》んである。僕は偶然この二人の画を見、ピカソに同情を感ずると同時にマテイスには親しみや羨ましさを感じた。マテイスは僕等|素人《しろうと》の目にもリアリズムに叩きこんだ腕を持つてゐる。その又リアリズムに叩きこんだ腕はマテイスの画に精彩を与へてゐるものの、時々画面の装飾的効果に多少の破綻《はたん》を生じてゐるかも知れない。若しどちらをとるかと言へば、僕
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