んだ不具退転《ふぐたいてん》の一本道である。芭蕉の度たび、俳諧さへ「一生の道の草」と呼んだのは必しも偶然ではなかつたであらう。兎に角彼は後代には勿論、当代にも滅多に理解されなかつた、(崇拝を受けたことはないとは言はない。)恐しい糞やけになつた詩人である。
二 伝記
芭蕉の伝記は細部に亘《わた》れば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけは下《しも》に尽きてゐると信じてゐる。――彼は不義をして伊賀を出奔《しゆつぽん》し、江戸へ来て遊里などへ出入しながら、いつか近代的(当代の)大詩人になつた。なほ又念の為につけ加へれば、文覚《もんがく》さへ恐れさせた西行《さいぎやう》ほどの肉体的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落した西行ほどの神経的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の伝記もあらゆる伝記のやうに彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産《おきみやげ》」にある蕩児《たうじ》の一生と大差ないのである。唯彼は彼の俳諧を、――彼の「一生の道の草」を残した。……
最後に彼を生んだ伊賀の国は「伊賀焼」の陶器を生んだ国だつた。かう云ふ一国の芸術的空気も封建時代には彼を生ずるのに或は力のあつたことであらう。僕はいつか伊賀の香合《かうがふ》に図々《づうづう》しくも枯淡な芭蕉を感じた。禅坊主は度たび褒める代りに貶《けな》す言葉を使ふものである。ああ云ふ心もちは芭蕉に対すると、僕等にもあることを感ぜざるを得ない。彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だつた。
三 芭蕉の衣鉢
芭蕉の衣鉢《いはつ》は詩的には丈艸などにも伝はつてゐる。それから、――この世紀の詩人たちにも或は伝はつてゐるかも知れない。が、生活的には伊賀のやうに山の多い信濃の大詩人、一茶に伝はつたばかりだつた。一時代の文明は勿論或詩人の作品を支配してゐる。一茶の作品は芭蕉の作品とその為にも[#「にも」に傍点]同じ峰に達してゐない。が、彼等は肚《はら》の底ではどちらも「糞やけ道《だう》」を通つてゐた。芭蕉の門弟だつた惟然《ゐねん》も亦或はかう云ふ一人だつたかも知れない。しかし彼は一茶のやうに図太い根性を持つてゐなかつた。その代りに一茶よりも可憐だつた。彼の風狂《ふうきやう》は芝居に見るやうに洒脱とか趣味とか云ふものではない。彼には彼の
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